北昤吉「陸軍パンフは未熟なる抽象論」

   同じ旬刊全貌昭和34年3月1日号に、北昤吉が「二・二六事件の真相 私だけが知っている」を書いてゐる。一輝の弟の昤吉が事件の詳細を語る。当日は早大で同僚の親友、武田豊四郎と日本新聞社などに行ってゐる。

 翌年7月21日検挙されたのは、磯部浅一怪文書事件の関係者として。磯部夫人が持ち出した3通の手紙は昤吉、やまと新聞の岩田富美夫、薩摩雄次宛て。そのほかに奉書紙で伏見宮軍令部総長宛てのものがあり、小笠原長生から渡してほしいといふ。

 手紙はやまと新聞社の地下室で写真に撮った。その場には、のちにともに議員になった浅岡信夫、藤原繁太郎、多摩美大専務理事の村田芳太郎がゐた。浅岡は珍しいものが手に入ると敬愛する頭山翁、内田良平翁に届ける習慣があり、今回もさうした。小笠原は仲介を拒んだ。

 憲兵隊本部の部屋の隣は岩田富美夫。飯がまずいから卵を持って持ってこいなどと威張ってゐる。取り調べの憲兵は蹶起将校に同情的で、岩田と同室で口裏合はせもできた。

 昤吉は議会で、事件に影響を与へたのは一輝の著書よりも陸軍のパンフレットだったと追及、パンフに対しては否定的意見を述べてゐる。

 

此等の志士の巨頭は日本の全局に通ずる識者の立案と国民の優良分子の支持を条件として聖上陛下の大権命令に依つて日本の全面的改革の行われんことを熱望している。従つて国家の一部を形成するに過ぎざる陸軍の未熟なる抽象論を強制的に実現せんとする企図に対して大に警戒する必要ありと考えている。政権武門に帰せる国家は覇道国家なりとは、不動の哲理である。