渡邊八郎「『陛下の赤子』は『人権』の宣言なのだ」

 以前、映画「天使のピアノ」の主人公として知られるやうになった石井筆子と、石井が経営した精神薄弱者のための滝乃川学園。そこで昭和20年以降、2度に亘り学園長を務めたのが渡邊八郎。
『渡邊八郎先生遺芳録』(昭和50年8月20日発行、同刊行会発行)は没後に渡邊の文業をまとめたものだが、会員頒布とあるので、部数は多くないと思はれる。一読すると、単に精薄者施設の学園長といふだけでは語りきれぬ背景を持ってゐたことが分かる。
 世話人代表の徳川義親が長めの序を書いてゐる。渡邊とは学習院中等科まで同期。

渡邊君は高校時代に西田幾多郎博士の講座に列し、大学時代は筧克彦博士に深く傾斜して終生の師と仰いだ。渡邊君の思想は神ながらの精神が基本である。是を以て多くの学生後進を導き、秩父宮殿下に奉仕した。更に滝乃川学園長として、精神薄弱者を神の子・陛下の赤子として教護に専念した。国体論・天皇論・憲法論その他凡て渡邊君の長い間の行持と体験と透徹した思索の余に出でたもので、個性が強く滲み出て真骨頂が遺憾なく表明されてゐると思ふ。

 6部構成で、第一部は皇国体・憲法について。昭和20年11月から三笠宮殿下にご進講した帝国憲法論などを収める。渡邊は日本国憲法無効論・帝国憲法復元論者。憲法改正も、日本国憲法を認めることになるので賛成しなかった。
 滝乃川学園に携はるやうになったのは、石井筆子の従姉弟であったこと、秩父宮御用掛、学習院教授・学生監などを務めた教育者であったことなどからだった。
 また精神的にも、創立者石井亮一の伝記を読んで感得するものがあった。石井の伝記から「私はこれから路傍に捨てられた紙屑拾ひにならう。しかも彼等はみな等しく陛下の赤子ではないか」といふ言葉を見出し、これを「本学園不磨の精神を求むべきもの」と肝に銘じた。

「陛下の赤子」なんて古い、と考へてはならぬ。それを今日の流行語で云へば、即ち「人権」の宣言なのだ。しかも「人権の尊重」とは、彼等と雖も等しく「神」の愛子で、本来の実相は等しく全智全能であることを、温く深切に認めることより大いなる尊重はないと思ふ。

 精神薄弱者も健常者も等しく陛下の赤子であり、平等に扱はれなければならぬ。今の言葉でいへば人権だが、陛下の赤子といったときには、その奥に渡邊の神観、人間観が反映されてゐた。それは筧克彦や生長の家などから培ったものだった。
 渡邊は更に、自身が世間からどう見られてゐたかを知りながら、しかも自信をもって行動した。第四部「僕は精薄者である」は精薄者の目から学園を見たといふ体裁で、H先生は渡邊、R先生は石井亮一神道的な渡邊が、キリスト教的な教育者から排斥され、一時学園を逐はれた経過を描く。その中にもかうある。

H先生の思想、行動、生活には、たしかに、いはゆる近代感覚なるものがなく、又いはゆる科学性といふものに欠けてゐるやうにも思はれる。しかし、先生は、その近代感覚とか科学性とか自体を、バカにしてゐるのである。神の禁ずる果実を、蛇の誘惑で盗み喰ひするから、神の国から追ひ出され、神と人とは別けられ、人の理知と神の智恵とは離れてしまつたのだ。「近代感覚」とか、「科学性」とかは、蛇の誘ひ語でしかない。

 問答録では、「陛下の赤子」について、相手が「明治時代の故人の慣用語だ」「封建思想そのものだ」と言ってゐるが、勿論これを書いたのも渡邊自身だ。

 石井はキリスト教の信仰を土台にしてゐたが、渡邊は神道を以てした。

何かの宗教的信仰の堅持なしには、この種の事業に身をささげがたい。私も亦従来の惟神道信仰がその雰囲気の裡に於て、どれほど強められ、深められ、補はれ、練り上げられたか知れない。私は日をきめて、彼等の間に伍して祈禱に列し、聖歌を唱ふを例としたが、又同時に、極めて自然に無理なく、礼拝終る頃の少時を乞ひうけて、園児と共に明治天皇の御製一首づつを斉唱する例を開き得たのみでなく、国祭日の朝には一同と共に、神宮の方向に対うて拍手及び拝の礼を行うまでになつた。そこには、世と人から棄てられた不幸児を取り囲んで、彼等の信仰と実修との間に、何の気まずさも、不調和も感じられなかつた。

 渡邊の中では、キリスト教神道とが矛盾なく連続してゐた。
 秩父宮殿下、筧克彦、岡田虎二郎らの思ひ出は、第六部にまとまってゐる。続く。