日の丸掲げた銀座の八眞茂登



































 『私は知りたい』は「その話・あの話の質問応答誌」を謳った月刊誌。読者が知りたいと思ふことを書いた投書のなかから、編集部が選んだものを記事にするといふ体裁になってゐる。記事の冒頭に、投稿者の住所と名前が掲げてある。
 自由国民社発行で長谷川國雄が口上を書いてゐる。昭和32年12月号が創刊号。
 その中に、読売新聞社会部の島木元一が書いた「銀座の8割を三国人に取られるまで」がある。質問者は「私は知りたい―日本の目貫通り銀座の大部分が、いまや日本人のものでなく三国人の手に渡つているという話ですが、どうしてそうなったか、本当のイキサツを知らせてください。」と言ってゐる。
 確かに私も知りたい、今だって知りたい人はゐるだらう。読売新聞は先輩の文章を読んで勉強すればいいのではないか。
 
 島木は「銀座は摩訶不思議なところです」と書き出す。一日8軒の店がつぶれ、同じ数の店が誕生する。経営者は目まぐるしく変って実態が把握できないからだ。
 そこで昭和31年、警視庁築地警察署が本格的な調査を敢行し、銀座外人リストを作った。読売の社員がこれを基にして書いた記事なので、信憑性は低くないだらう。
 これによると、明治の昔は別にして、外国人の資本が大々的に流入したのは昭和12年ごろ。李起東が銀座二・三・五・六丁目の千数百坪の土地を所有するやうになった。しかし李は中村と名乗るほどの親日家で、福祉や育英事業も手がけた。銀座の住民とも友好的にやってゐた。
 これが戦後の混乱期、三国人が幅を利かせる下地になる。終戦直後、日本人が露天で扱ってゐた品物はろうそく、古本、ゴムひも、電気製品、下駄、絵葉書、古道具、パイプ、キセルなど。こまごましたものだった。一方、「すしやのみや、そばや、煙草や、衣料品など、直接その日の生活に響く衣食の必需品は、中国人、朝鮮人に握られているのでした」。それは何故か。

戦災で、生産力がゼロになった日本の銀座は戦争中の隠退蔵物資、当時の物資統制令の裏道をくぐる不正ルートで、ヤミ市に運び出す取引場だったわけです。しかもそのヤミ市によらなければ、復興の第一歩をふみだすことができなかった。そしてこのルートを、三国人が握っていたことが、三国人がのしてきた第一の原因です。三国人には酒、ビール、洋酒、煙草の特配がありましたし、戦勝国という看板と、CIC、CIDをカサにきて、わがもの顔に横行したものです。

 三国人経営の飲食店には税金がかからず、輸入品も安く入手できるので、みな名義を三国人した。名義を貸しただけの心算が、因縁をつけられのっとられる店もでてきた。
 これに対抗してできたのが暴力団の「銀座警察」。高橋輝雄次席が「被害者がいくら訴えても、事件にならなかった」「今でも道義的には悪いと思っていない。むしろわれわれの力で、銀座をある程度、三国人から守ることができたと自負している」と語ってゐる。
 「熊のいるレストラン」八眞茂登の店主も紹介されてゐる。

〝銀座租界〟の有様に憤慨し、祝祭日には屋上に大日章旗をかかげ、日比谷角のMP本部に、一週間もブチこまれた骨のある銀座人もいました。