頭山秀三追悼会に参列した村松梢風

 『私の履歴書』(昭和32年5月5日発行、金文堂)は村松梢風の随筆集。同名の連載が今も日経で続いてゐる。村松の連載も収録されてゐるが女性関係だけで終はってしまってゐる。全200頁のうち30頁くらゐ。
 日経に載らなかった文章に「右と左」があり、此の中に頭山秀三一周忌法要兼追悼会のことを詳しく記してゐる。ところが登場人物は実名ではなく、イニシャルでTとかT翁としてゐる。尤も「T翁は昭和十九年九十歳で物故された」「国士無雙の父を持ったT氏」と、頭山翁の三男、秀三のことだとすぐに分かる。それならなぜ実名にしなかったかといふと、村松はこの会の出席者たちに反撥を感じてゐたからだと思はれる。
 頭山一家とは碁や其の他のことでも繋がりがあり、「T家の人達に共通する高潔な人格、或いは教養の高いその家風といったようなものを尊敬していた」。T翁は悠々と碁を打つやうな人だったが、三男の秀三は違った。

T氏の方はいつでも自分が真先きに飛び出すという風で、官憲から常に危険人物として睨まれていた。右翼でありながらあながち軍人に与せず、退治すべき悪資本家のリストをつくっているような、いわば右翼的社会主義者であったらしい。

 秀三は頭山翁と違って先陣を切って行動する性格だった。昭和27年に交通事故死した際も「T氏がもう少し自重してくれればよかったと残念に思った」。
 追悼会には右翼の著名人が多いらしかった。

私はそれらの演説を聴いているうちにいつとなく変な気持ちになった。二・二六事件当時へ逆戻りしてしまったかのような気持がした。日華事変も日米戦争もなかったように聞える。日本が敗戦の結果、今日どんな状態にあるかということについては全然無関心のように見える態度で、戦争前と少しも変らない国家主義を主張しているかのように聞えた。正直なところ私はこれら著名な右翼の指導者たちは、多くの戦犯と同時に、戦争責任者として重い処刑を受けたのだろうと思っていた。どういう事情か知らないが、そういう人達が皆元気な顔を並べていて、敗戦の現状をまるで無視しているような、旧式な慷慨激越の弁論を、十人も二十人も続け様に聴かされたので、私はすっかり頭が変になって、何んとも云えない憤りのようなものに囚われていると、突如司会者は私を指名した。

 村松は風水害や豪雨が続く悪天候下に追悼会が行はれたことを語り、「何らかの意味を暗示するものではないでしょうか」と結んだ。出席者たちへの怒りをぶつけた心算が、会場からは盛んな拍手が送られた。「拍手は儀礼だとしても、不可解な気持であった」。
 村松の気持ちはなかなか理解されない。日本人の道徳悪化の一因は天皇にもあるとし、責任をとるべきだと唱へた。これは「或る夜の感想」と題して描かれてゐる。鎌倉の喫茶店で新聞社員や作家たちと話し合ってゐる。これもイニシャルの匿名。
 彼等との間でも村松の意見はなかなか同意を得られない。

文壇の全作家評論家に対し天皇問題について意見を徴したら、過半数、いや殆ど全部に近い位が天皇制及び現天皇を擁護するだろう。文壇ほど穏健なところはない。作家達は日本を愛すると同じ程度に天皇を愛し尊敬している。文壇というところは尊皇思想の最後の牙城となるだろう。

 ところが村松に近い考への持ち主として、A氏が登場する。久米正雄の胸像を建てる敷地の交渉で、村松が所有者のA氏宅を訪れたことがある。最終的には長谷観音の敷地に変更になるが、そのときの雑談を記録してゐる。

A氏は往年神兵隊なるものを組織して活躍した熱烈な国家主義者である。私とA氏は同郷でもあり又他の関係もあって間接にはよく知り合っている間柄だった。A氏は敬神家で現在ある神社の氏子総代になっている。

 松村が皇室について聞くと、「私は飽く迄も祖先崇拝の立場ですから、従って皇室を尊崇するのです」といふ。昭和天皇について聞くと「あのお方は、戦没者の名前を書いてお暮らしになるべきですね」と、苦渋の色を漂はせて答へた。
 熱烈な国家主義で敬神家ではあるが、昭和天皇に対しては含むところがある態度を取ってゐる。A氏といふのは天野辰夫と見て良いだらう。
 赤尾や児玉も退位論を唱へてゐたが、先輩の天野も突き放した見方をしてゐたことになる。