ボースとカレーと犬養毅

 新宿歴史博物館で2月19日から4月10日まで、「新宿中村屋に咲いた文化芸術」が開催された。株式会社中村屋協働企画。すぐに文章にまとめようと思ったが延び延びになってゐた。

 左室に、中村屋サロンに集った芸術家の作品が並ぶ。数点を除いてガラスケースがなく、いろんな角度から見られるのがよい。会場入り口では、美術の教科書などで御馴染みの「女」荻原守衛がお出迎へ。肢体よりも、見上げる顔が印象に残る構成になってゐる。他に中村つねなど。

 次にいよいよ右室のラス・ビハリ・ボース資料へ。写真など堪能して、家に帰ってゆっくり図録や資料を眺めよう…と思ったら、どうも勝手が違ふ。図録には展示品目録も、全作品解説も載ってゐない。かういふ特別展の図録は、展示をそのまま再現するものではないかと思ふのだが、どうも別物である。

 関係者14人の人名解説と出品目録は図録ではなく、入場時に配られるA4で4ページの紙に載ってゐる。犬養毅については、ボースの帰化名「防須」の名付け親であること、五一五事件で斃れたことを略述。でも首相だったことが抜けてゐる。ま常識の部類でせうが。

 犬養と同年生まれの頭山翁については「安政2年、現・福岡県福岡市に生まれる。明治から昭和初期に活躍した、世界的なアジア主義者である。インド独立の志士であるR,B,ボースを支援し、イギリス政府からの逃亡を手助けしただけでなく、相馬夫妻の長女俊子との仲を取り持った。」が全文。右翼とか国家主義者とかでないところがミソ。

 出品目録の方は、資料名と年代だけで、展示解説がないので、展示パネルから書き起こすしかない。下にまとめませう。

1〈R,B,ボースと俊子 大正8年頃/1919頃〉
大正7年(1918)7月9日 ボースと相馬俊子は結婚する。この写真が撮影されたのは翌年の大正8年である。ボースは大正12年日本に帰化し、「防須」と改名。


2〈R,B,ボースと息子の正秀、娘の哲子 不詳〉

3〈父ボースから、子供たちへの便り 昭和17年/1942〉
日本軍によるシンガポール陥落を受けて、インド独立連盟総裁に就任したボースは、バンコク会議に出席。そこでインド国民軍最高指揮官に就く。東南アジア人兵を指揮すべく、タイ、マレーシア、シンガポールなど各地で講演を行った。資料は、現地のボースから、子供たち(正秀、哲子)に送られた手紙である。昭和17年(1942)5月31日、バンコクからの手紙。バンコクからの手紙は、ほとんどタイで書かれたローマ字のものであった。同年、シンガポールからのはがきの表には、昭南(シンガポール憲兵分隊の検印がある。家族の安否を心配する、父ボースの一面が見える。



4〈「ライスカレイ」の礼状 不詳〉
 福岡県の政治家、野田卯太郎から“中村屋のボース”宛で送られてきた書簡

5〈ライスカレーの味ハ今迄忘れられす 大正11年/1922〉

 犬養毅が葛生能久に宛てた書簡。ボースが振舞ったインドカリーの味が忘れられないとの一文が書かれている。

6〈謝恩の会 大正5年/1916〉
 
 大正4年(1915)、R、B,ボースらが開催した反英集会がイギリス政府の逆鱗に触れ、同盟国である日本政府はボースの国外追放を命じた。日英両国政府に追われるボースは、頭山満の手助けによって、新宿中村屋に匿われることになる。翌年の春には、現在の乃木坂駅付近の麻布新龍土町に密かに引っ越して、逃亡を支えた関係者をこの家に招待し、インドカレーをふるまったという。写真は、このとき撮られたものである。

7〈謝恩会(退去命令記念) 昭和17年/1942〉

 昭和17年(1942)3月4日、中村屋で開かれた「謝恩会」。この時は、頭山満をはじめ、玄洋社黒龍会のメンバーに支援の継続を依頼したという。このあと、政財界への支援要請を関西まで熱意をもって広げていく。後列中央:相馬愛蔵、前列中央:頭山満、その左隣:ボース


8〈インドの同志とボース 不詳〉
 中央は、A,M、サハーイ サハーイは、神戸を中心に活動し、国民会議派の日本支部を創設した。撮影は昭和8年(1933)大阪にて

9〈インド独立運動の同士(ママ)たちと 不詳〉

 (解説なし) 

10〈頭山満とプラタープを囲んで 不詳〉
 
 写真後列に。相馬夫妻とボース。前列に中央に頭山満、左隣にプラタプ。プラタプはR、B,ボース、A、Mナイルと共に日本で活躍したインド独立派の志士。1915年以降、その行動範囲を著しく制限された。R、B、ボースに組し、プラタプは反植民地主義者のネットワークを利用し、世界を縦横に走り回った。また、宗教的多一論に基づく世界連邦主義を唱えた先行者としても知られている。日本では大川周明を中心とした行地社のアジア主義者たちと思想的に呼応し、様々な影響を与えた。

11〈新潟にてプラタープ達と 昭和3年/1928〉

 1928年3月来日したプラタプら同士とともに、独立運動の支援者を募るため、各地で講演を行っている。

12〈日本とインドの同士(ママ) 不詳〉

 年代は特定できないが、頭山満がインドと日本の国旗を持ち、まさに懸け橋というような象徴的な写真である。

13〈大東亜戦争開戦直後に同志たちと 昭和16年/1941〉

 昭和16年(1941)12月8日、開戦が報じられると、インド独立運動のメンバーは内幸町のレインボーグリルに集合し、対策を協議。この写真は、この時のもので、中央R、B、ボース、右はデーシュ、パーンデー パーンデーは、1930年代後半、インド独立運動で頭角を現した若き革命家。講道館で柔道を修得するため来日。独立運動に参加し、ボースの片腕として活躍。

14〈中村屋の居間で 不詳〉

 後列左から黒光、ボース、愛蔵。前列右から3人目に頭山満

15〈祝 第37回陸軍記念日 大東亜民族交歓大会 昭和17年/1942〉

 昭和17年(1942)3月9日、小石川後楽球場で開催された「大東亜〜大会」での演説の様子。この頃は毎日のように演説に出かけ、インド独立の重要性を訴えた。

16〈スバス・チャンドラ・ボース来日時、R,B,ボースが使用した挨拶文 昭和18年/1943〉

 インド独立連盟総裁のバトンタッチが決まる。

19〈新聞の表紙を飾る軍服のR,B,ボース 昭和17年/1942〉

バンコクタイムズ」(1942年6月15日)
 自由と世界平和が人類の幸福であると、同年6月20日の日付で直筆が残されている。

20〈妻・俊子の急逝を報じる新聞記事 大正14年/1925〉

大正14年)直筆メモや保管は夫ボースによるもの。東京朝日、時事新報、東京日々、国民。

21〈サリー〉
 
 写真の相馬黒光、俊子が着ているインドの民族衣装、サリー。個人蔵。

※各資料のタイトルは、ボース本人の記述に基づいている。記述のないものについては、当館で作成した。

 ボースと頭山翁の写真が多く満足。なぜ図録に載せないのでせう。印象に残ったのはサリー。白黒写真ではわからないが、淡いピンクに植物をあしらったかはいいもの。