三宅捨吉の牛が怖かった奥平恭昌

 『三宅捨吉自叙伝』は奥付なし、息子の三宅嘉十郎による序文の日付は昭和7年10月24日。

 三宅捨吉は安政元年、紀州藩士の四男として生まれた。高野山寺院の住職の下で働く。焼失した幡川薬師を復興するなどしたが、上京して漢学の塾を開き、学習院の教師にもなった。畜産業が有望だと思ひ、大久保百人町で明治21年ごろから酪農を始める。しかし牛が病気になったり乳が出なかったりとうまくゆかない。伊豆から列車で運んできた牛が、東京で動かなくなることもあった。

駿河台井上眼科病院前に来りしに五頭共に俄に将棋倒しの如く倒れて動かず、有らゆる手段を施せしも毫も感ぜず自然道路の妨害になるを以て頻に巡査の叱責を受くるも如何ともすること能はず其困難名状すべからず、

 翌日になってやっと動いたが、利益が出ずに結局廉価で売却し、酪農業から撤退してしまふ。その後はメリヤス業で成功し、小石川区会議員にも当選。各種の役職にも就いた。昭和6年11月1日病没。次男の守は留岡幸助の家庭学校に学んだといふ。

 酪農に手を出さず学習院に勤めるだけにしておけば苦労をしないで済んだだらうが、そもそも寺の住職に納まることをせずに、学問を修めて上京した。進取の気性をもって人生を切り開いた様子を伝へてゐる。

 後半ではゆかりの人々が追悼し、宮中顧問官の工藤一記の文章や平田盛胤の弔詞がある。異彩を放つのが、豊前中津藩主の息子、奥平恭昌の回顧録。8歳のころに三宅家に預けられ、学習院に通った。10歳のときに弟の昌国も来た。満年齢ならもっと下だらう。その時のことを綿々と11ページにわたって、昨日のことのやうにつづってゐる。手伝ひで牛の乳をしぼるのだが、奥平は牛が怖かった。

今度は反対側の乳を搾らなければならぬけれども、牛の頭の方から廻れば角で突かれるやうな気持がする、又後ろから廻れば足で蹴られるやうな気分がして、どうも反対側に行くのに良い方法がないから、毎朝牛の腹を潜つて反対側の方に行つた、

 前も後ろも怖いので、牛の下をくぐっていったといふ。この生活を3年も続けた。お小遣ひは天保銭で、駄菓子屋に通った。帰り道、地元の子供に襲撃され、喧嘩をして引っかかれて家に帰った。三宅夫人には木の枝でけがをしたと嘘をついたが、三宅には本当のことを言った。三宅はいつも勉強しろなどと言はず、言葉づかひも丁寧だ。この時もやさしく戒めてゐる。

「…これからは何もお菓子の取りやり位のことで一切喧嘩をしてはいけない、万一買つて来たお菓子を取られるやうなことがあつたならば再び上げますからどうか喧嘩はしないで下さい」