田邊勉吉が会った弁天町の先生

 『長興山随筆』は田邊勉吉著、発行者田邊輝雄、大正15年6月発行。著者は住友銀行久原鉱業で勤務し、重役も務めた。田健次郎訪問中に発病し、以降亡くなるまで長興山荘で静養した。その間に書いたものなどを櫻井鷗村が編集したのが本書。櫻井曰く

不得要領なるが如くにして、何処かで君らしい要領を得るのが、其の仕事の仕振でもあり、其の談論の調子でもあつた。

 それがよく表れてゐるのが「△(ウロコ)宗趣旨及び申し合せ」。理想的な生活を追求するものらしいがよくわからない。申合せは6項目。

一、△宗の目的は、相互の黙契と各自の実行とにより、実生活の真諦を捉へんとするにあり。

一、△宗は毫も各自を束縛することなく、各自相互は常に自由なること。

(略)

一、△旨に賛同し、相互黙契の印として或る徽章類似のもの、例へば△(メタル製)の如きものゝ所持と使用とを計りたきこと。

 言語に寄りかからず、記号を重視した集まりのやうだ。ほかの箇所では△生活、三角生活ともいってゐる。△の読み方も自由だ。

 田邊の周囲には奇人が集まってくる。友人の島添豕一郎がひどく怯えて、助けを求めにきた。けがもしてゐる。島添は弁天町の先生のところに寄宿してゐた。その先生には田邊も会ったことがあるが、そのときには「神経質の一風変つた人」としか思はなかった。

 しかし島添は九州出身の玄洋社かぶれで、何度か会ふうちに今度は先生かぶれになった。先生は奇妙に青年を魅了する力があり、未知の青年もたちまち無上の尊敬を払ふやうになるといふ。一種の催眠術者だらうか。

 その寄宿舎で先生は精神振作を説き、白刃を振り回したりする。学校に行くことをやめさせた書生が何人も暮らしてゐる。外出には監視が付き、手紙も禁じられてゐる。島添は虐待に耐えかねて、隙を見て逃げてきたのだといふ。

『それで君はあの家を出る事なんか出来ないのかね。』『エゝそんな事でも言ひ出さうものなら、何んな酷い目に逢はされるかも知れないんです。(略)女なんか、そりや可哀相な目に逢ふのです。(略)』

 と、引用も憚るやうな所業を行ってゐる。

 田邊は先生の住所も名前も秘密にしてゐるが、宮内省の女官や政界にも触手を伸ばし、児玉源太郎に取り入ったとか、自宅に神殿を造営したなどといふ記述を読むと、ある人物が思ひ浮かぶ。日本のラスプーチンといはれた男。住所は弁天町ではないが、音の響きが似てゐる。

 

・コンビニのムックに登場した謎の四字熟語、紅色遂行。入力者はツイコウだと思ってゐる。