生田蝶介「川田氏の勁さは手力男の神であつた」

 『青雲』第3巻第3号は昭和41年3月発行。故川田順先生追悼号。本文38ページ。発行所名は田中御幸方とだけある。

 同年1月に亡くなった川田について、関係者らが思ひ出や和歌を寄せてゐる。詩人の生田蝶介は終戦後の自身の困窮から書き起こす。生田は静岡県小山町疎開してゐた。

凡ソ草といふ草は手当り次第採つて来て食べた。団栗の実さへ食べてゐた。昔の乞食すら食べなかつたものを食べて辛じていたましい、内容の一つもない、虫けらより無意味の生をつづけてゐた。

東京の神宮前の家は焼け、22歳の娘を失ひ、それでも歌誌『吾妹』を発行してゐた。生田は、川田も同じやうな境遇だったと回顧する。ただ、川田には強靭な精神力があったといふ。

川田氏の生活はあの大戦によつて救ふ道がない程粉砕されてしまつたのは私と大差なかつた。川田氏は人にすぐれて強靭の精神力を有つてゐたから常人の如く容易にはク崩折れてしまふやうなことはしなかつた、そのままぐつたりと参つてしまふやうな凡人ではんかつた。

 歌と俊子氏といふ二つに支へられて、力強く生きてゐた。その姿に、生田も力付けられてゐた。

その男々しい姿を見て、私もふかく感動したのであつた。大戦に打ちひしがれて何もかも失つてしまつた私にとつて川田氏のこの勁さは千万力の大いなる手力男の神であつた。

 川田は国府津に越してくるとき、貯金は全て子供にあげてしまった。服は夏冬一着ずつの背広しかなかったといふ。生田は何度か川田のもとを訪ね、「あきらめの中のやうな、孤島のやうなあの頃のお二人」の美しさを偲んでゐる。

 川田は弟子をとらないことにしてゐたが、例外的に三人ゐるといふ。日大教授の池森亀鶴、三好達治に師事した鈴木貫介、公認会計士の後藤岩男。この三人については後藤が川田から直接さう聞いてゐる。のちに奈良忠夫が加はったと補足されてゐる。しかし他にも田中御幸も弟子の一人。田中は「奇妙な縁」で弟子となったが従順でなく、感激が薄く生意気な小娘だったと書いてゐる。川田は結社を持たなかったので、この『青雲』を後継の誌として成長させたいと意気を新たにしてゐる。

 

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