馬場譲が開いた豪傑飯屋「気安野」

 『実業之世界』大正2年3月1日号(第10巻第5号)に、「馬賊式の豪傑飯屋」といふ記事が載ってゐる。
 神田駿河台の一膳飯屋、「気安野」は、5銭で腹いっぱい飯を食へる。欄間には、頭山翁と観樹三浦梧楼の書があるが、それだけではない。

振つてゐるのは左右前後さては土間の格子に張紙して迄も書なぐつた一面の落書である。一句千金に値する罵倒文字破れ壮士が双肩を怒らしたやうな痛快文字がベタに惜気もなく書捨てゝある。

 店の中一面に、壮士が肩を怒らせて書いたやうな落書きがうち捨ててある。田中舎身、半井桃水江見水蔭らが書いてゐる。半井も豪傑組だったのか。
 蒙古王・佐々木照山は「しんこ焼海苔、酒屋を叩き、アんこうせんを豚汁勿れ、時に煮肴無きにしもあらず、アサク心を味噌で煮る」。「天莫空勾践 時非無范蠡」のもぢりで、当時は誰もが知ってゐた南朝の忠臣、児島高徳を気取ってゐる。
 舎身居士は宣言といふ名で「銭がないなら貸してもやらう、有るときやどつさり置いて行け、喧嘩せぬよに盃かはせ、平和で沢山のんでくれ」。豪傑連の御機嫌ぶりが発揮されて微笑ましい。
 この店を始めた馬場譲は早稲田大の出身で、高須梅渓に酒を飲ませて店から蹴飛ばしたりしたあと、大連で末永純一郎の遼東新報の記者となった。日本に戻って、元同僚の夫人とこの店を始めた。
 これを書いた記者は

神経衰弱や生活難の弱音などは、吹消すやうにケロリと快くなるに極つてゐる。

 と来店の効用を説いてゐる。