大井広介に日本刀で脅された山田多賀市

 今秋に人文書館から山田多賀市の評伝が出る筈だが、どう描かれるだらうか。
『雑草』(山田多賀市、東邦出版社、昭和46年2月)は全線文学賞受賞作品。帯の惹句を借りると「異色作家の自伝的小説 仁義をきって渡り歩く瓦職人、飯場の土方…雑草のように生きぬいて文学修行を志した著者の波瀾の半生」。
 一応主人公は並木健助としてあるが、著者であることが想像できる。序盤で、飯場葉山嘉樹と知り合ひ、後半で上京する前後から本庄陸男、武田麟太郎、大井広介らと親しくなる。同人活動、当時の出版の仕方なども出てくる。
 中盤に描かれるのは甲府における農民運動。この頃の知り合ひとして作家の熊王徳平、新聞記者の羽中田誠、民社党山梨県委員長の穴水間直、社会党県会議員の雨宮猛三郎、読売新聞本社出版部長の山本剛らがゐる。輿石新は医者。雨宮はのちに大陸に渡り、黒沢主一郎陸軍中将の酒保で働いたとある。
 小作人のために働く主人公に味方した裁判所書記官に丸山金重がゐる。右翼思想を持ってゐた、とある。

「一天万上、上御一人の御為に、農民は汗水流しておる。しかるに何ぞ、地主はふところ手をして、働かずに小作農民を搾取しているではないか。兵隊になって戦線に活動しているのも、小作農民の子弟である。地主の分際で、この非常時に、小作料を全額、取りたてるとは、ふとどきである。当然、小作人の申し立て通り、五割引きにするのが妥当である。(略)ただいま、天皇陛下に忠義をはげむことは、一粒でも多く、米を生産することだ。(略)」

 主人公らは左翼農民運動に親近感を示したかと思へば、右翼とも協力する融通無碍なものだった。そもそも左右を弁別できなかったかもしれない。選挙で事務長を務めたのは県の産業組合理事の蔦木武士。

 蔦木武士は、右翼団体新日本国民同盟山梨県支部長で県会議員だが、農民出身の彼は右翼的立場から、現行の土地制度を改革しなくてはいけない、という主張をもっていた。そして彼は、平野力三の言う社会主義国家主義をつなぎ合わせたような、国家社会主義という主張をけいべつしていた。

 国家社会主義が流行ってゐたからといって、右翼皆がさうではなかった。応援弁士には大学教授、文学博士、法学博士らが来た。

一番弱ったのは、新日本国民同盟の委員長、佐々井一晁と、皇室御歌所の文学博士某は、農村の会場を一日四回以上割りあてろと言ってきかなかった。彼等は本気になって、皇室の偉大さ、天皇を中心とした国家社会の弥栄を説き、民草を説得するつもりでいる。

 某は誰だらう。
 上京後に主人公を困らせたのが編集者の大井広介。筆名で本名は麻生賀一郎。麻生太郎の親戚。「ブルジョアの我まま息子」「金とヒマに不自由のない者」と酷評されてゐる。

 大井広介という人は、特別神経質な人であった。健助の評判を巷できいてくると、その翌日は、速達か電報で健助を呼びつけた。健助は農民組合県連の仕事をしているので、大井の指示した日に、出かけて行けない時が多い。すると大井は腹を立てるのであった。

 大井は嫉妬深く、手紙には、本庄陸男のところには寄らずに直接来るやうにとしつこく書いてくる。麻生家の女中に手を出したと邪推されたときは刃傷沙汰になった。

大井は、応接室の隅にある刀掛けから、日本刀を一本つかみとり、鯉口を切って、パチンと鍔を鳴らして、健助の前へ立ちはだかった。抜き打ちに切りつける身がまえだ。

 特高に取り調べられたときのこともでてくる。

健助の小説が大観堂から出版になった。その頃、近藤は甲府警察署特高係主任をやっていて、部下の刑事三人と共に、健助を小料理屋にさそい、出版記念だと言って、一席もうけてくれたことがある。勿論、費用は特高課の機密費だ。

「農民小説だ、瓦焼きの小説なんて、つまらぬものを書いていてはいかんな。国策にそった小説を書け、ヒノ何ヘイという奴のように、日本軍の強いところ書け」薬袋勘兵衛は、威丈高になって、健助を見上げた。見上げたという表現はおかしいが、勘兵衛は小男で、健助は大男で立っているからだ。

 特高の推薦は火野葦平だったらしい。ただこの言ひ方ではちゃんと読んでゐたかどうか。

 もう少し、特高をこわい者と書かなければ、納得しない読者もいるかもしれない。だが健助は、一度でも特高をこわいと思ったことはない。ただ、うるさい小役人めが、とは常に腹の中で思っていた。

 
 ・今年の日本民間放送連盟賞CM部門、最優秀賞は名古屋の96歳古書店主を撮ったもの。これでお客さんくるやうになるかな。