社会学者の天達忠雄が遺した歌集が『幽囚の歌』。昭和40年7月30日発行。発行所・出版社の記載なし。巻末に著作者の住所と電話番号だけが載ってゐる。
「豚箱の歌」「独房の歌」「文子のノートより」「あとがき」からなる。歌はすべて、天達が思想犯として捕まってからつづった、いはゆる獄中歌。戦争の最中で、東京Y警察署に昭和18年11月16日から19年5月28日まで、巣鴨拘置所に翌日から20年7月6日まで、豊多摩仮拘置所に翌日から、釈放の10月9日まで。
天達はよく本や雑誌を読み、手紙ではほとんど毎回、差し入れについて触れてゐる。戦時下の署内・所内の日常や読書環境が窺はれる。技巧は少なく、文語で五七五七七に収めただけにみえるが、さういふ直叙が観照に徹したやうな印象を与へる。
読書に関するものを引くと、
唯一の通風口は週刊の読物なるに今日も来ざるか
待てど来ぬ本の差入規則変り三冊までとなりにけるよし
差入の本がとだえて講談の汚き本を借りて読みをり
週刊の朝日を貸して貰ひたしと雑役がそつと頼みに来たり
今月はつひに一度も本来ずと思ひをりしが今日ぞ来にけり
などがある。本では宗教書や歴史書が多く、内村鑑三や山鹿素行の全集、白柳秀湖の書名が挙がる。特に週刊誌を渇望。
週刊の読物類は入手困難になった由、これらの刊行物と手紙だけが外気を運んで来る通風口なので、甚だ残念ですが、やむを得ません。山寺にこもるように暮すのもまた修養になりましょう。
と言ってゐる。別便で「私のような生活をしている者には極めて有益」「週刊ものはいつも繰り返し三回位読みます」と珍重してゐる。「週刊誌」の用例はなく、「週刊読み物」「週刊もの」などと言ってゐる。具体的には週刊朝日、週刊毎日、アサヒグラフ、週報、写真週報などを挙げる。朝日は終戦2日前にも届いてゐる。
数が書いてないので数へてみると、警察署のときの「豚箱の歌」は和歌195首と詩1編、拘置所・仮拘置所時代の「独房の歌」は808首、手紙38通。和歌だけで1000首を超える。歌集は一�に一首だったりするものもあるけれど、これなら読み応へもある。そのほかにも目に付いたものを引く。
あぶら煮る香りするよと思ひしが果して昼は藷の天麩羅
花買ふといふ贅沢は人間の持つ贅沢の最大のもの
つながれて爆死はしたくなしなどと囁き交す声の聞ゆる
購入の魚粉とぜりいを一時にむさぼりくひぬ野良犬のごと
世界史の移り変りの大芝居吾も獄にありて端役つとむる
古俵に死体を詰める音のする棺桶もなき世とはなれるか
昭和19年に「そのかみの院外団の壮士あり武勇伝をば夜毎語りぬ」「吾は左彼は右ゆく主義なれど別れといふは淋しかりけり」もある。右ゆく彼については、文子夫人も次のやうにノートしてゐる。
右翼のHさん釈放。三人の壮士風の人に迎えられ、りゅうとした紋付の羽織袴で、特高室の真中に立ったHさん。
文子夫人によると、差入れの行列待ちでは夫の罪状を言ふのが挨拶代はりだったといふ。「うちはただの経済犯でね」は大声。「うちは破廉恥罪でして」はうつむきながら。夫が思想犯の文子夫人は押し黙ってゐた。