早川雪洲「勝つチャンスは、一度か二度は必ずある」

 『如是々々』は昭和63年2月刊、「宮川隆喜寿出版を祝う会」が発行者。確かに手元のものには、喜寿を迎へた宮川隆人が献呈署名を書いてゐる。公的機関の所蔵が殆どなく、近親だけに配布したらしい。
 しかし受け取って読んだ人は何を思っただらうか、宮川の仕事は特殊なものばかり。「私の人生で一番あぶらののった憲兵時代」のほか、戦中戦後も各種の事業をしてゐた。
 学校卒業後、満洲に渡り、新京憲兵隊約17人の一員となった。周囲には、右翼も左翼も拒まない外科医の大森美雄、「反軍的な満人や朝鮮人、日本人の新聞記者なども暗殺の標的にした」といふ宮崎勇四郎らがゐた。
 東条英機憲兵隊司令官になると、皇道派と民間右翼の一大検束が強行された。宮川がした仕事は、憂国者の決起を呼びかける怪文書の発信者探し。紙の透かしや筆跡から執筆者を突き止めてゐる。南次郎朝鮮総督のもとで「機密費をねらう政治ゴロや右翼の応待とその選別」をする仕事を任されさうになったが東条の横槍で中止。憲兵制度改善の上申書を東条宛てにしたためる。

とかく従来、憲兵隊の防諜はザルに近いものと批判され、あるいは諜報活動においてはいわゆる憲兵情報として確度乙と影口をたたかれる

と現状を批判し、諜報と防諜の秘密機関設置を提言した。「私の上申書がモノをいったわけではないと思うが、」上申の5ヵ月後に特高課に諜報室が新設された。
 大達茂雄からは、白表紙と黄表紙について教はった。どちらも関東軍司令官の指示書で、白は公開してゐるが、黄は軍事機密で、影の満洲憲法といはれてゐた。満洲が独立国ではなく、主権が皇帝にないと読めるもので、「熟読玩味すればする程、これは容易ならざる問題だと心に衝撃を覚えた」。

黄表紙は七部作成し、『永久保存・軍事機密』の朱印を押捺して、関東軍司令部三部・陸軍省二部・満洲国二部(協和会本部一、総務部長一部)を各自保管することとした。
 はしなくもこの内の一部が満鉄の情報部の手に漏洩し、私はこれを逆に非常手段を用いて落手し、大達さんを激怒させた黄表紙の内容を知ることを得た。

 「非常手段」が何なのか記さず、また他書では秘密の方が白表紙になってゐるが、とにかく内容を問題視した宮川は石原莞爾にも直接会って疑問をぶつけてゐる。
 北京特務機関勤務、北京新政府樹立作業、蒙古会館経営をしてゐるうちに終戦
 日本で中国国民党の姉妹政党、日本民主党を結成すると言って早期帰国に成功、実際に徳島から天羽情報局総裁の従弟を立候補させてゐる。
 海外引揚者企業組合で常務理事を務めたあとは、米空軍情報部特別調査官となり、三沢基地に赴任。情報部員として働くほか、基地の外に軍人専用のビアホールを開設させてゐる。そのあと三無事件の川南豊作の造船所を再建したりして、読む方が追ひつけない。
 昭和29年の話として、五島慶太を後ろ盾にした、東急の文化会館の設立にも携はってゐる。渋谷にあったもののことだらう。設立のための団体として文化信用組合を組織。組合長は早川雪洲で、書類の写真を見ると本名の早川金太郎と書かれてゐる。発起人に久保田万太郎青野季吉丹羽文雄服部良一らがゐる。熱心だった協力者として山田耕筰の名もある。雪洲のことは随想にも書いてゐる。

プロレスやスモウの時間は、テレビのある喫茶店は満員の盛況であった。彼はスモウが始まる時間には、行きつけの喫茶店のテレビの前に陣取って、どんな用件が突発しようと動こうともしない。
 彼にいわせると、どんな負けスモウでも、よく見ていると、勝つチャンスは、一度か二度は必ずある。
 だから、その一度か二度のチャンスをうまくつかんだ者が勝ち、その機会を逸した者が負けになる、ということである。たしかにその通りで、私達の人生においても勝者となるか、敗者となるかは、この一度か二度のチャンスを摑むか否かにあると思われる。