ニイハウ島事件の西開地重徳を追った東山半之助

 今年の夏はオリンピックがあったので、戦争ものの報道が少なかった。
 『ざっくばらん この道三十年』(東山半之助著、日本教文社)は昭和40年7月24日初版。手元のものは8版で昭和48年2月10日発行。
 生長の家を信仰する著者の回顧録。明治24年香川県生まれで新聞配達、貸本屋、地方新聞の校正助手、朝日新聞・時事新報の地方記者を経て四国民報社長。社長時代に経営難で自殺を考へてゐたところ、生長の家に出会って救はれた。のち本部講師・理事。
 紹介文に「これを読めば生長の家の歴史もおのずからわかる貴重な記録」「赤裸々な懺悔録」。書名に違はずざっくばらんで、「はしがきに代えて」から面白い。

三十年間の私の読むものといえば谷口雅春先生の御執筆が大部分であって、時間利用のへたな私は、毎月の生長の家の五雑誌と先生の矢つぎばやにお書きになる単行本とだけすら完全に読みこなし得ない。しょっちゅう新刊に追っかけられてハアハア息切れするというおはずかしい私は、どうかすると先生のはしがきだけを読んで、半年も後に本文を通読するという逆転現象を生じている。

 さすが別名、紙の宗教。あれだけ発行物が多ければ読むのも大変だらう。はしがき論もいい。

 正直いって、私は青年時代から名著・愚書のいかんを問わず、序文やはしがきを読むのがきらいで——というより意識的に読まないくせをもっている。はしがきの文句というものは、たいていはいやに謙遜しているか、反対にうぬぼれているかだ。いやに謙遜するくらいなら、いっそ本を書いたり出版したり、世間さまに迷惑をかけないことにしてもらいたい。自慢話ならば、薬の効能書きを読まされたときのように、小馬鹿にされた気がする。

 謙遜するくらゐなら出版しなければいいと言ってゐるのに、その後には「世界的聖典良書の淵源といわれる日本教文社から出すというのに、何たる卑俗低級な雑本を書いたのだとお叱りをこうむりそうなこの本」と卑下してゐる。
 
 自殺を考へてゐた東山の目を引いたのは、生長の家が読売新聞に出した、下5段ぶっ通しの広告だった。早速内容見本のパンフレットと書籍を注文した。

この神秘な魅力ある広告文を作るほどの広告作成者(アド・ライター)を使う谷口という人は非凡の人にちがいないと、心の感激をかきたてて雑誌を読み出す。読むうちに、驚いた、感心した、敬服した、うなり出した。

 自分の新聞紙面に『生命の實相』の意見や解釈を書き、「智慧の言葉」を各ページ記事中に割り込ませるなど、光明化に邁進した。社内で生長の家を褒めると、漫画家の和田邦坊や文芸部の十返肇らからひやかされた。無料人生相談や特高の来客が多くなった。もともと軍とは反りが合はなかったが、次第に軍人とも知り合ってゆく。一方、誌友が警察に召喚されたり息子の郵便が検閲されたりと、戦時下の様子もわかる。
 戦後、ハワイで布教したときに取り組んだのがニイハウ島事件の真相究明。真珠湾攻撃の後に不時着した戦闘機の乗員と現地の日系人計2名が住民300人に包囲された。脱出したものの2人刺し違へて亡くなってしまった。
 東山の奔走で現地日系人は原田義雄、搭乗者は四国出身の西開地重徳(にしかいち・しげのり)であることがわかった。原田夫人から西開地の親族の情報を聞き取る際、生長の家の信仰が役に立った。

「奥様、生長の家には神想観という瞑想(メディテーション)と祈禱(プレイ)を兼ねた秘法があります。榎さんと私が只今からそれを勤めますから、奥様も瞑目合掌して、西開地君の顔を思い出し、ジッと心の中で凝視(みつめ)ていて下さい。そうすれば、きっと西開地君の書いたことか、言われたことを思い出します。(略)」

 これにより夫人が思ひ出した僅かな漢字をヒントにし、新聞記者時代の知人らを動員して日本の親族を突き止めた。