村井斧助「咀嚼は神代よりの日本の特色」

 『咀嚼と健康 『正しき食事』を提唱す』は昭和15年12月発行。本文74頁の小冊子。発行所は品川区大井原町の国民体位復興会だが、実態は代表の村井斧助が独力でやってゐるやうだ。
 歯科医だけに、咀嚼の重要性について唾液の効用や食事の仕方を論じ、現代でも頷けるところがある。
 序文は椎尾弁匡。村井が精神的師父と仰ぎ、辱交十数年に及ぶ。椎尾は「仏法の第一は食、食法の第一は咀嚼」だといふ。原稿を見ると「閲するに米国のフレツチヤー氏のことなどを力説せらる。事例固より可なるも、むしろ東洋殊に我が古代の完全咀嚼に学ぶべきを感じて改修を求む」と望んだ。その通りに書き改めたさうなので、椎尾の意見も反映されてゐるやうだ。
 復興会の趣意書には、時局を意識した表現をしてゐる。

今日、国際間に馳駆する日本人、否な正に世界の覇を握らんとする我が日本人として、此の体躯の点に於いては祖先のそれを慕ふこと実に切なるものがあります。土地狭く天恵に乏しき我が日本が世界に覇を為さんとするには唯人間力を恃みとするのみ。

 本文では、近衛新体制のこの秋、食生活も一新するべきだと説く。

政治も外交も産業も経済も、一切が、今までの悪弊を清算して、新体制即ち挙国一致体制に革新されねばならぬ時が到達し正にその準備が進められて居ります。この期この際、これ等一切の基礎となる個人生活が革新されなくて済むわけがありません。 

 椎尾のいふ古代は神代と表記され、理想視してゐる。

咀嚼は神代よりの日本の特色でありました。ために立派な体格も出来て居たのに、惜しい哉、近世支那の美食が祟り、戦国時代から玄米が白米に変はり、武田流の早食など咀嚼せずうのみにする事が中流以下に行はれ、漸次上下共に咀嚼の足らざる生活」となった。

 食物は玄米がよいが、玄米に慣れるまではよく咀嚼する食事を勧めてゐる。菜食主義も紹介し、世界ではバーナード・ショウ、トルストイヒトラーがさうだといふ。次のところも椎尾の意見を取り入れたのだらうか。

この主義者には感情の上に美はしい一つの倫理観を保有してゐます。人間たるものが動物を殺して食ふといふのは人情忍びぬことである。言はヾ共喰ひのやうなものであるから、動物食は避けなくてはならぬといふものが、トルストイアン一派の菜食主義者の信奉するイデオロギーであります。
 仏教でいふ「殺生禁断」、基督教で言ふ「汝等殺す勿れ」の戒律を遵奉するものは、自然に人間と殆ど等しい生理的機構を有する四足獣を屠つて食ふといふことは如何にしても忍びぬ訳であります。

 ヒトラーも菜食主義で括るとトルストイアンだといふ。
 今読むと、動物は殺生禁止で人間は戦争をしてよいのかといふ疑問が起こるが、本書では矛盾とされてゐない。祖先から受け継いだ体を健康にして、国家のお役に立てようといふのが趣旨になってゐる。