「日本暗殺秘録」のシナリオを書き直させた藤井五一郎























『藤井五一郎の生涯』(藤井五一郎追想録刊行世話人編集発行、昭和46年10月刊)は、背も表紙も「藤井五一郎」の部分が達筆で判読できず、一見誰の本か分からない。しかし読んでみると、その人柄や交友が分かる。
 藤井は血盟団事件帝人事件で裁判長を務めた。当時の新聞など読むと名前が出てくる。全470頁のうち、二段に組まれた帝人事件の判決だけで100頁くらゐを占めてゐる。戦後は公安調査庁初代長官を務め、寄稿者約70人の多くはその頃の人脈になってゐる。なかには木村篤太郎、町井久之、水島毅の名もある。
 血盟団の小沼広晃も思ひ出を寄せてゐる。小沼らによる事件の影響で、その前に浜口首相を狙撃してゐた佐郷屋留雄も極刑になるといふことを藤井から聞いた。このときの裁判長は酒巻といひ、血盟団事件を単なる殺人事件とみなしたり、江戸時代の尊王家、山縣大貮を知らなかったりと、被告からの評判が悪かった。

私は、愕然とした。佐郷屋君は、殺人未遂じゃないか。浜口首相は退院して一度全快して、衆議院本会議にも出席している。死亡したのは、手術の際のミスで、緑膿菌は佐郷屋と無関係じゃないか。何が司法権の独立だ。

 藤井が裁判長になると、一転して被告の意見も聞き、皇太子殿下(今上天皇)ご誕生の恩赦に間に合はせようと審理を急がせたりと取り計らってくれた。
 戦後、小沼を主人公にした映画「日本暗殺秘録」を制作するとき、東映が本人に了解と相談を取りにきた。そのときも藤井が熱心に動いた。

特に藤井先生は、そのシナリオを見たいし、制作担当者と会って意見の交換もしたいと積極的な姿勢を見せられたので、東映側の制作責任者たるシナリオライター、監督、プロデューサーと私のその道の友人も参加して、藤井先生の事務所で会合した。
 その際、藤井先生は、血盟団事件の真意が何処に在って、それがどのようになったかを真剣に話して聞かせ、シナリオの不備を指摘し、その後シナリオを書き直させること二回。やっと了承を得た。

 かういふ行動は、裁判長だったといふこと以上の思ひ入れを感じせる。藤井は長州出身で、乃木将軍を偲んだ。公安調査庁時代の訓示が幾つか収録されてゐて、それを読んでも日頃の考へが分かる。

 あまり知られてゐないのは蒙古聯合自治政府に赴任したことで、民生部と司法部の次長を務めた。渡航にあたり、河上肇石原莞爾から似たやうな忠告を受けた。決して優越感を抱いてはならず、現地人の心になってもらひたい、「僕等が満洲で失った理想を君達が蒙古で実現してくれ」(石原)といふものだった。

 蒙古勤務の心がけとしては、他にツラン運動との関はりがある。東京都教育父母会議専務理事の肩書きを持つ橋本政東は、ツラン運動家。血盟団事件で活躍した角岡弁護士について記す。

角岡知良弁護士は、蒙古・満洲ハンガリーフィンランドエストニヤ・トルコ等の有志と共に昭和二年頃から「ツラン民族運動を起し、世界中の同系民族間の精神的文化的交流提携」を呼びかけた。その第一線行動隊として「日本ツラン青年連盟」が私共青年(当時の)を中心に発起され現在もなおこの運動を展開している。この運動の中に蒙古が厳然として含まれているのである。

 藤井は角岡から機関誌や単行本、分布図などを贈られ「大変喜こんでおられた」。渡蒙にあたり角岡から情報も受けてゐた。ツラン運動のよき理解者といったところだらう。続く。




・実録の日経の御告文、ルビと本文のかな遣ひが新旧バラバラ。さういふ認識なんだなあ。