藤井五一郎が会長を務めた「行の会」

 続き。藤井五一郎は蒙古で、徳王にも会ってゐる。住吉国雄が藤井から聞いた話を記してゐる。

徳王の家には上等のジョニオーカーや洋菓子などがあって、蒙疆のサイハテの地にこんなものがあろうとは思いも寄らぬことだった。馬の乳を醸造してつくられた馬乳酒があった。これは一種の強壮剤でトッカピン以上に効目があるが、何分にもアルコール分が強くて、とても二杯と飲める代物じゃなかった。

 徳王の話にも窺はれるが、藤井は人一倍健康に気を遣ひ、アロエ、クコ、青汁、イオン水なんでも試した。全裸になって、普段隠れてゐるところの日光浴もさせた。
 
 健康を心がけたのは、身体面だけではない。明治神宮への参拝は創建当初からのもので、都合が悪くなっても一日と十五日には必ず参拝した。これは藤井自身も回顧してゐる。

 その当時、私は東大を卒業して東京地方裁判所の判事をしていたが、東京市に国民の崇拝する神社が靖国神社のほかにもうひとつ出来たことを非常に嬉しく思った。またその十一月一日は私の誕生日でもあったので、殊のほか嬉しくて今は亡き妻と連れだって参拝した。
 その頃、上野谷中に住んでいたが、それからというものは毎月一日と十五日には欠かさずにお参りしたものだ。その後、大正十三年から十四年まではドイツに留学したのでお参りは叶わなかったが、大正十五年正月に東京地裁に帰任したので、特に住居を原宿駅のそばに選び、晴雨に拘らず特別の事情のない限り毎朝六時頃必ず参拝した。その後、渋谷金王町に転居してからも毎朝おまいりした。

 明治神宮に参拝するためその近くに居を構へ、それからは日参した。これほど熱心な崇敬は、なかなか例がないだらう。

 明治神宮には、昭和8年6月15日設立の「行の会」といふのがあり、戦前は禊、戦後は御製と御歌奉唱をしてゐた。
 茶原義雄は杉浦重剛の称好塾塾頭。茶原は明治神宮の創建当初から日参してゐる。

小生は杉浦重剛の称好塾で育ち、大正十年に摂政宮殿下(今上陛下)御外遊に際して、その御平安を祈願するため、自身ばかりでなく塾生をも明治神宮に日参せしめられた。明治神宮大正九年十一月一日鎮座祭が執り行われたばかり、小生は日参後の清々しさに打たれて、それから日参を続け始めた。そうして禊の会の創設にも出会い、血盟団の結末に苦労せられる藤井先生にもお目に掛った次第である。

 角岡知良も称好塾出身なので、藤井との縁は血盟団事件より遡るかもしれない。はじめ、行の会の会長は神社局長だった方の吉田茂で、昭和29年の没後に藤井が引き継いだ。公安調査庁長官就任の2年後だ。

有馬海軍大将が宮司をしておられた頃は会員は神宮で「水ゴリ」をとり斎戒沐浴して神前に額いていた。今は水ゴリは採らなくなったが行の会は今も尚続いていて毎月一日と十五日の月次祭には会員打揃って宮司以下全神官と共に内拝殿に進み、明治天皇昭憲皇太后の神霊にうやうやしく頭を垂れ天皇の御製と皇太后の御歌を合唱奉納するのであるが、藤井先生は永逝されるまで此の会の会長をしておられ、会員を代表して玉串を奉奠されていた。

 以上は行の会会員だった橋本政東の追想。伊達巽権宮司も書いてゐる。

大事件の裁判に関与せられた法曹界の権威であられ、公安調査庁長官もつとめられたのであって、平素常に公明正大、天地神明に恥なき精神を堅持しようと努め心掛けられたのであって、明治天皇様を深く尊崇せられて「行の会」の先頭に立たれたのも、そのためではなかったかと、ひそかに想像せられたのである。