古本屋とエチオピアに渡った庄子勇之助

 『千山万里の旅』(株式会社丸誠)は庄子勇之助の自伝。奥付では昭和61年春発行、同封の挨拶文には4月とある。庄子は、かの東亜同文書院に入学したものの、よい就職先が決められずにゐた。その頃、エチオピアのヘルイ外相が来日、それまで全く知らなかったが、新聞報道により「アフリカでたったひとつの独立国であり、皇統連綿三千年」、日本とよく似た国だと思ひ、天啓を受けたやうに渡航を決心した。
 その後、長崎商工会議所がエチオピアへ経済調査団を派遣するといふ話を聞き、幸運にも参加することができた。そしてその団長が、長崎の古本屋の若旦那、北川孝だった。北川は「一見したところ三十二、三歳、温厚ながら内にしっかりしたものを持っている方のように見受けられた」。長崎は大陸に近く進取の気性に富んでゐて、北川もその傾向があったといふ。
 庄子は調査結果を『エチオピア経済事情』にまとめて、昭和8年11月、角岡知良の大道社から出版。昭和天皇にも献上された。すると星一から話があり、エチオピアで薬草を栽培したいのだといふ。星は角岡とも親しかった。

 私はこのお話をきいて、全面的に賛成するとともに、大いに乗気になった。星さんはもともと単なる事業家ではなく、いつも国のためを考えている国士であった。私も当初からエチオピアに日本の若者を送りこみたいという考えを持っていたので、星さんの企画は私の発想と全面的に合致していたのである。

 庄子は角岡の紹介で頭山翁と何度も会ひ、激励された。イタリアとエチオピアが開戦したときは、「エチオピアを救へ」といふ国民運動が起こり、頭山、星、角岡らが支援した。庄子は大阪毎日新聞の特別通信員として、そして参謀本部から旅費の支給を受けて再び渡航した。たった一人の日本の新聞記者なので皇帝にも拝謁、私設外交官のやうな役割を果たした。しかし戦況はエチオピアに不利で、皇帝も亡命してしまった。
 それにしても以前、頭山翁は下位春吉とも会ってゐる。エチオピアとイタリアとの紛争をどう思ってゐたのか。

 その後正式に毎日の社員になった庄子。宮内省詰めの後に、日本軍の秘密任務に協力した。大本営マレー半島上陸にあたり、現地の詳細な気象データを必要としてゐた。

この気象データを握っているのはタイ国の国防省であり、これは当然極秘事項に属していた。久徳少佐の任務は、この気象データを入手することであり、この成否いかんは上陸作戦に重大な影響が予想される。少佐のこの任務遂行にあたって、旧知の私が協力を求められたのであった。

現代にあっては、新聞記者がこのような戦争目的に協力するのは、ためらわれることかもしれない。しかし当時は、これもお国のためであり、お国につくすのは当然の行為として誰も疑いを抱かなかった。支局長には計画の全容は話さなかったが、久徳少佐に協力する旨だけ告げて、諒解を得た。
 開戦前夜のバンコクは騒然としてきた。日本軍の潜行的活動は、サイゴンからバンコクへ移ってきた。陸海軍の武官府が強化され、昭和通商や台湾拓殖あるいは他の会社の社員として、地下工作員が続々と流れこんできた。

 何かと話題の昭和通商のほかにも、同じやうな会社があったらしい。