台風で溺死寸前になった古屋登世子























 昭和37年に『女の肖像』を上梓した後の古屋登世子は何をしてゐたのか。八光流機関誌の『八光流』昭和42年1月号に古屋が寄稿してゐる。
 八光流奥山龍峰が興したもので、「柔道にあらず合気道にあらず空手にあらず、従来の武術の範疇に見られない独特の秘技」。護身術を謳ひ、女性や高齢者にも向いてゐるといふ。
 古屋は原稿執筆時85歳で、八光流初段の段位を持ってゐた。
 昭和41年9月25日、古屋は富士山麓の不二山荘へ向かった。基督心宗の開祖、山月川合信水が住んでゐた場所で、川合は古谷の遠隔治療を受けてゐた。昭和37年の川合没後もそのままになってゐたやうで、その遺書の発表や資金の献納をするため山荘へ行ったのだといふ。

ズドーンと恐ろしい音がして家が震動した。「これは大変な事になつたなあ、私は明日の朝早く家へ帰りましよう」と、思う処へ早くも泥水が流れ込む。暗やみの中を、手塚さんが来て「此処は危険です。危ないから、おんぶしましよう」と、隣の部屋迄連れ出して呉れたが、戸が開かなくて、外にでることが出来ない。

 外から硝子を破ってもらひ脱出し、布団にくるまって救助を待った。

身体は冷え切り、手足もしびれてきた。手塚さんは声を限りに「誰か来て下さい、誰か来て下さい」と叫んでいるが、誰も来る様子がない。声も枯れてしまつた。私は「主よ御心なし給え」と繰り返して居るうちに「主よ御心……」位しか、言えなくなった。

 山津波(当時は土石流といはなかった)は不二山荘の車庫や物置を押しつぶし、本邸を傾かせる被害を出した。
 懐中電灯を照らしながら救助に来て、泊まらせてくれたのも基督心宗の信者だった。

お書斎に入ると、床の間に開祖先生の御写真がかけてあり、その下に白い十字架が貼り付けてある。下には先生の著書が並んでる。此処へ入つて、御写真の前に、ぬかずくと、自ら口をついて出たのが「先生有り難うございます」と云う言葉である。それと一緒に涙が、ドツとあふれてきた。泣けて仕方がない。涙で身も魂も洗い清められた。御写真の前で休ませて頂く。

 時計とがま口をあとで回収できたが、靴と眼鏡と拡大鏡を失ってしまった。
 古屋自身は信者たちの奮闘に感動し、「ただただ感謝である」。

御蔭で私はまざまざと、基督心宗開祖川合信水先生の御徳が、どの人にもどの人にも沁み通っている事を体験して、私自身が浄化されてゆくのを覚える。

 「霊肉不二、生死一如の信仰の益々強化されたたことは、感謝感激の他ありません」、復興資金4万円を寄付するのだといふ。
 85歳でも波乱万丈の経験をしてゐる。同号には、小出忠義の幽蘭救助譚も載ってゐる。