斎藤至「講談社はパラダイス」

 『社風美談』は大日本雄弁会講談社発行、昭和6年6月発行。講談社についての、名士や社員、少年社員による美談をまとめたもの。

 名士たちは、原稿の受け取りなどにやって来る社員を褒めたたへる。礼儀正しい、言葉が丁寧、実直、会社の悪口を言はないなどなど、べた褒めにする。

 東京高等師範学校教授、保科孝一は「当代の偉観」といひ、小説家の野村愛正は「感心のほかはありません」、東京堂卸部主任の鈴木徳太郎は「現代の奇蹟」とまでいふ。

 何人もの人々が、社員が待ってゐる間、玄関で履物を整理したり片づけたりしてくれたといふ。それで恐縮したり感謝したりしてゐるのだが、やり過ぎだと思ふ人はゐなかっただらうか。

 社外の人だけでなく、社内の人も褒めたたへる。斎藤至は入社5ケ月未満の新入社員。

 

少しく誇張して云へば此の世ならぬ『パラダイス』と云ふ感じだ。何が本社をして『パラダイス』たらしめたか? 偉大なる社長様であり、社長様の御心を心とする六百の社員少年諸君のよき魂でなければならない。(略)

 冷静に、冷静に見たのである。だが見れば見る程輝く本社であり、美しき社員及び少年諸君の心であつた。

 

 この人だけが特殊なのではなく、何十人もの社員、少年社員が会社や他の社員を褒めたたへる。何さんは深夜2時まで働いてゐる、誰さんは何日も徹夜してゐる、あの人は忙しくて何を食べたらいいかわからなくなったので、注文してほしといふ…。読んでも読んでも「美談」が続く。一つ一つの記事は短いのに、書く人の熱量が多くてなかなか読み進められなかった。

 ある正月、避寒で別邸に行く野間清治社長から、留守宅の管理を任された小保方氏。留守宅に異常がないやうに、「側目で見るもいたはしい程の潔斎精進ぶり」。夜警の少年が深夜に水音のする風呂場の付近を見回った。そこで見たのが小保方氏の姿。

 

この寒空に真裸になつて水垢離をとつて一心に祈願をこめてをられる小保方氏の気高き姿であつた。

 

 留守宅の平穏や、社長の安寧を祈願してゐたのだらう。深夜でなくともよいのではないかと思ったが、早朝だったのかもしれない。これを記した社員は、「神にも近い真心」と激賞してゐる。

 尚、野治社長が講談社の社是を論じてゐて、その一つに「渾然一体」がある。部屋が分かれてゐるのもその妨げになるかもしれないといふ。

 

形の上には障子一重に過ぎなくても、心の上に又障子一重が出来るといふやうなこともありますから、一切の障壁を廃し間隔を撤して、壁もなければ堀もない、紙なら一枚、水なら一椀、温かい血の互に交流する兄弟の情を以て、謂はゆる水魚の交りをなす。斯うありたいと思ひました。

 

 障子があれば社員の心にも障子があるやうなもの。障壁を撤廃し、間隔をあけないやうにするのがよいとふ。コロナ禍では難しさう。