下中みどり「これが男女同権か、あなおそろしや」

 『みどりの日記』は下中弥三郎夫人、下中みどりの日記。昭和27年2月1日から書き始め、中断を挟みながら29年12月2日で終ってゐる。他界したのは翌30年1月26日。奥付けは3月16日になってゐる。
 末尾に弥三郎の挨拶文がある。「内容も、相当にシンラツな筆つきで、家庭批評、社会批評をやつている」「文中、ちよいちよい、言ひすぎ、思いすごしというようなところもないではないし、親族中のあるものはひどくやりだまにあがっている向もあるが、みなそのままにしておいた」。
 そのため、ごく親しい者だけに配られた非売品になってゐる。しかしその批評眼を埋もれさせるには惜しいほど面白い。「平凡」の命名者といふのも納得させられる。
 新しい女性批判、嫁批判がちょくちょく出てくる。27年5月26日。

ところが近頃よく承はる所によれば、若い女も酒をのむとか、昔は芸者か女郎かはた又二号さん位の特種の女にかぎられてゐたものだ。それが現今では大学出のインテリのお嬢様、奥様がたが公会の場所で、男性とさしむかひできこしめさるとか、これが男女同権か、あなおそろしや。

 27年8月7日。

昔は暴風雨は二百十日か二十日しかなかつたやうだが、終戦後は年に何回でも時かまはずあばれて来る。しかも暴風雨の名は皆お嬢様の名ばかり、終戦後のアプレ娘を表象したやうな気がして片腹いたい。

某日の嫁批判も厳しい。

料理、洗濯、掃除すべて家庭的な仕事といつたら、まるで坊やをもらつたやうなもの。それに性質がまけずぎらひで強情で、独断でばかりやつて、二年同棲したが、たヾの一度だつてお母様これはどうでせうかと聞いたことがなかつた。

 気晴らしにはよく映画を見てゐて、28年6月18日は戦艦大和の映画を見てゐる。

思つたほどいやな気持は起らず却つてかうも軍人精神が徹底して、国をおもひ君をおもふ心が実に立派で胸をつくものばかりで今の若い者に少しでもこの心が残つてゐたらやれ争議だのストなども起らないで国も、もつと早く建て直るのではないかと思ふ。今の者は自由主義をかざして少しでも楽な仕事をして余計な収入を取ることばかり考へてゐるやう。真面目に働いてゐるものは却つて馬鹿あつかひしてのけものにする。所謂タナからボタモチ式のことばかり望んでゐるやうだ。

 みどり夫人は労働組合が嫌ひだった。同年5月29日。

処が今度新しく入社した人達(多くは他社からつれて来た人達)が裏でこそこそと組合をつくつたわけ。折角何十年来他社にないなごやかな会社が敵、味方で働くことになつた。長年の主人の温情がうらぎられたかたちでくれぐれも残念至極。

 
同年4月4日。

大抵の人が入社の時は泣きつくやうにして頼んで来て、少し馴れて来ると、すつかりその時のことは忘れて、我まま放題、要求ばかり持出して来るので、沢山の社員をかかへては主人のやうな道徳先生温情主義では、駄目、甘つたれてばかりゐてつまり義務は果さないで要求、権利ばかりを主張したがる人が多いやうに見うけられる。何といつてもむずかしい状勢だ。おそろしやおそろしや。

 
 29年には、日記の初めに「五月一日 晴 メーデー(大きらひの日)」と書いてゐる。労働組合に対しては、弥三郎も寿命が縮まる思ひだったさうで、夫人は夫の健康面からも心配してゐる。
 尤も28年2月10日をみると、

平凡社から電話があつて邦彦さんはどうなさいましたかと問合せて来た。まだ出社してゐないやうだ。呑気なもんだ。

 とあり、息子の邦彦の呑気ぶりを記録する。
 28年10月にはパール判事を迎へてゐる。

パールさんは酒も煙草もお飲みにならない方でお行儀の良い法律学者のやうだ。からだの大きな方で背丈は六尺一寸出るらしい。従つて体重も二十四五貫もある大人。六十六とかでゐらつしやるが、孫十三人、曾孫二人の大家族とのこと。インドは結婚が早いから、こんなに大家族になることゝ思ふ。

 園遊会に招かれた様子、皇室のことの書きぶりからは、崇敬の情が伝はる。