竹村猛児の横顔

竹村猛児は昭和十年代に医療随筆を物した作家で、十数冊の単行本のほか、『新青年』に寄稿してゐたので、その名が残ってゐる。
 はじめに菊池寛徳富蘇峰が推薦し、そののち吉屋信子木村毅、齋藤茂吉も称揚した。その割りに戦前の著書を読んでも経歴が今一判然としなかったけれども、新書版の『往診鞄』(武野藤介編、福書房、昭和31年)を読んだらその横顔が少し見えてきた。
 武野のあとがきによると、竹村は青山一丁目で開業してゐた小児科医。武野主宰の雑誌『コント倶楽部』に文章が掲載されてゐた。「甚だ人懐かしがりや。文学青年らしい感傷。私はつねに好感をもってつきあっていた」。版画も得意で、武野の装丁にも協力した。エッチングもよくして、ダットサンも運転した。
 田舎に疎開して病死したのが、「確か終戦になってから」とあるので昭和20年のことであらうか。夫人のもとには焼け残った著作2冊しかなかったが、武野の元に12冊残ってゐて、厳選して福書房から出版した。
 その社長は福永匡祐といって、竹村の本をすべて出版し、戦後も再刻しようとしてゐて武野に巡り会った。巻末には「ハッピー叢書」のタイトルで武野の著書が宣伝されてゐて、『ホルモン談義』は武野編。
  福出版からは品川義介も長田幹彦も本を出してゐて、竹村の本も「『儲け」というものを度外視して」とある。