ポール・リシャール「バハ・オラは確かに立派な預言者だ」

 北署吉が主宰した『猶興』、昭和27年2月号(1巻2号)に、河合譲といふ人が「バハイズムの思い出」を書いてゐる。早大トロント大卒で、元立教と台北高等商業大学の教授、元『学苑』編輯長とある。
 大正4年、早稲田の学部1年の秋か翌春にアレキサンダー女史と会って以来の話なので日本のバハイズム初期のことだ。
 珍しい宗教を宣伝するといふので友人と会ひに行ったのが最初で、「非常に気持の明るい美しい人」。富士見町の女史の宿舎で毎週金曜日にやってゐた会合に参加するやうになった。女史の帰国後は、鳥居といふ盲人の家で大正7年頃まで続いた。
 当時の会合者は秋田雨雀エロシェンコ言語学専攻の浅井恵倫君ら数名。河合はバハイを研究した成果を秋田と共に原稿にしたが結局刊行はされず、一部を雑誌や小冊子の形にして発表した。
 秋田や浅井は次第にバハイから離れてエスペラントに移ったが、河合はポール・リシャールと親交を持ってゐたので、バハイズムへの関心を失はなかった。

 同氏はもろもろの預言者の智恵を哲人の識見と同一に置き、時にはそれ以上に価値ありとして預言者を信頼し、新しい預言者の出現を待望してゐたのであつた。そして同氏によると、バハ・ウーラは確かに立派な預言者だということであつた。またバハイズムについても、将来のことは預言できぬが、多分一つの新らしい宗教として益々栄えるだろうとのことであつた。

 河合はリシャール夫人に老子を教え、代りにサンスクリットを教はるといふのが一年にも及んだ。リシャールの『告日本国』は大川周明を中心にして何度も紹介、出版されてきたが、河合はその大亜細亜主義的な取り上げられ方が不満で、リシャールの真意ではないと言ってゐる。
  《預言者》宮崎虎之助も出てくる。バハイズムと似たことを言ってゐたさうで、向ふから河合と接触し、リシャールとも秋田とも会った。しかしリシャールは宮崎に思想がないといって冷淡だった。

 同号にはアレキサンダー女史の手紙、他の号にはバハイズムの紹介も載ってゐる。手紙には「北沢氏」の希望に応じて出版物を刊行したとある。