六原青年道場の訓練生を教へた阿部清治郎

 『もうひとつの昭和史 北上山系に生きた人々』は田中義郎・塚田博康・陸口潤著、辺境社発行、勁草書房発売。昭和52年7月発行。疎開、金融恐慌、飢饉、農地解放など、岩手県の話題を14本集めたもの。もとは東京新聞社会面の連載で、加筆したり項目を追加したりして、5倍の分量になった。

 各テーマは「崩れた神話」「炎の日からの記録」「ある英雄たちの伝説」などで、目次を見ても内容がちょっとわからない。その中の6つ目に「惟神の道」といふのがあった。

 これは昭和初年にあった、岩手県立六原青年道場についての話題。道場内の学校で教師をしてゐた、阿部清治郎からの聞き書きが中心で、道場の教育内容や暮らしぶり、あとから振り返っての感慨などがまとめられてゐる。

 道場は筧克彦門下の石黒英彦岩手県知事が開設したもので、筧の日本体操(やまとばたらき)、やはり筧門下の加藤完治の指導にる農業が行はれてゐた。

 阿部は東北帝大で国史を学んだインテリだった。阿部は道場の教育をどう感じたか。

びっくりしたことに、身体がヘトヘトになっている時には、神がかりの話でも「乾いた砂に水がしみ通るようにしみ込んだ」という。「中身は忘れたが、その時はなるほどと思った」

 「あれもひとつの教育方法」と、この談話当時でも感心してゐた。道場はヒトラー・ユーゲントのドイツ青年も訓練したほどの存在、加藤の内原訓練所と並び称されるまでになった。

 しかし著者によれば、六原は内原の二番煎じで、それを払拭するためにより極端に走った。内原の人間からも常軌を逸してゐるといはれ、拷問に近い苦行だったと表現されてゐる。きつい開墾作業、栄養が十分でない食事、日本精神の教育などが描かれる。

 それだけではなく、道場では教へる側が腐敗してゐた。著者は揶揄とともに実態を指摘してゐる。

「惟神の道」の実践者たちは古事記の神々にも似た放縦さだった。男女職員の間の乱れた関係、醜悪な派閥争い、訓練生には禁止した酒を自分たちではこっそり飲む教士たち……。そんな道場の内幕を、阿部さんは「床の間の裏に便所があった」と表現する。

敷地内にあった六原神社も解体され、朽ち果ててしまったと伝へてゐる。