とある地図の出版に協力する星一と反対する奥村喜和男



『巨人頭山満翁』の書名のあるもののうち、鉄道公論社から昭和57年に発行されたものは、土谷哲靖(義輝)がまとめたもの。9割は『正伝』を抜書きしたものだけれども、ほんの少し書いてある著者と頭山翁との関はりが面白い。
 土谷は昭和16年、頭山邸を訪問。「日本地図の欠陥と地図からうける国民の錯覚を指摘し、これが作り替えに微力を尽くしたい」と論じた。その時広田弘毅星一がやってきて、中野正剛が書いた南方経綸の書物を東條が中止させたことなどを頭山翁に訴へた。
 頭山翁からは「なにぶんよろしく頼むよ」と言われたことが機縁となって、土谷は星から協力を取り付け、地図出版費として5万円を約束。小遣ひをもらったり、揮毫をしてもらふ。「人間は二ツ手があるんだから右手だけしか使えぬ人は駄目だ」と言って、いつも左手で「親切第一」などを書いた。

 その地図のことで当時東京市の教育局長皆川治広さん(元司法事務次官)や昭文閣の八幡博堂さん、文部省の内山秘書官等々数多くの賛助も得た私であったが当時情報局次長の奥村喜和男氏との談判中意見の衝突で同氏の賛助が得られず紙の統制時代のこととて残念だが出版を断念せざるを得なかった。というよりも十二月八日の大東亜戦争のため星製薬の茫大な薬草園凍結‐。

 交友関係がいろいろ繋がってゐるが、土谷自身の略歴もなかなか。朝日新聞記者、上海日報社、毎日新聞社などに勤務後、大日本楠公精神会会長を務めた。戦後は世界戦争防止協力会といふのも結成してゐる。