有松英義内務省保安課長「それでは盲判を押すからね」

 続き。佐藤孝三郎は明治33年5月に内務省警保局図書課属として採用された。月給35円。当人にとっては金殿玉楼中の人物になったやうで、夢の如しだと喜んでゐる。
 局長は安楽兼道。初日に電話をかけるやうに言付かったが、架け方がわからず困ってゐると、関といふ老人が代りにやってくれたといふ時代。
 仕事は図書課新聞検閲係。毎日新聞を検閲する。同僚の前田千賀良は江戸っ子で文字もうまく、彼から指導を受けた。他の仕事は知事宛の公文書作成で、型があるので苦労した。
 文章を内務次官の小松原英太郎に褒められたのち、外字新聞係に転属。語学は自信がなかったが、同僚の東譲三郎が堪能だった。
 興味深いのは、佐藤採用時のいきさつ。神山閏次といふ内務省参事官、のちの内務省警保局図書課長が高文試験の指導にやってきて、佐藤は半年ほど出席。遠足で文学や哲学などについても語り合ふほど親しくなってゐた。
 

かの図書課に欠員を生ぜし時、神山課長は早速余の履歴書を提げて局長安楽氏にその採用を懇請し給いしが、その時局長は一人の候補者を自身にも持ち給いければ、「実は神山君、僕にも一人適当と思われる人物があるのだが」と言われた。これを聞くや神山氏は決然顔色を変じ「余は今日まで本省に勤務、自らの部下は自らの選択により採用し得べしと信じいたり。然るに、今やそのこと能わざるならば、余は余の職責を完全に遂行し得ず。潔く身を退かんのみ」と語られた。

 神山は、佐藤を採用できなければ退職するとまで言って安楽に迫った。安楽の方はどうしても自分の候補を採用したいといふほどではなかったので、晴れて佐藤が採用に決した。「余はこれを聞きて、神山氏の職を賭して推挽せられしを知って感泣の他なく、永く再生の恩を肝に銘じて忘れざる次第である」。
 
 内務省保安課長だった有松英義も出てくる。

出張報告書の分厚きを持参せるに、有松氏は片笑みて「こんなに沢山紙数があれば、誰も一々読まぬからよいね」と言われつつ「それで内容は大丈夫かい」と聞かれ、「それでは盲判を押すからね」と言われて処理された。何となく空とぼけたるところありて、然も常に後輩の観察を怠らぬ人であった。

 読まねばならぬ文書が多いので、有松課長のやうに昼行灯を装はなければ務まらなかったのであらう。
 
 佐藤は上司や同僚に恵まれてゐるなあ…。