八重野範三郎「自分はこれだけの高齢となっていたことを忘れていたのが誤りであった」

 『高岳自叙伝』(昭和38年、非売品)は佐藤孝三郎の自伝。明治元年に福岡県浮羽郡に生まれ、各県の内務部長、名古屋・函館両市長などを歴任した内務官僚。息子に佐藤達夫法制局長官。
 自分のことを勇往の気に欠けるとか性質柔弱だとか人慣れしないと自覚し、仏教や修養で克服しようとした。中西牛郎の著書や本間俊平の協力に拠った。月旦は率直で、誰々をよく思はなかったとか書いてゐて、官僚らしからぬ血の通った文章になってゐる。
 
 福岡出身だけに右翼と呼ばれる人たちの名前も頻出する。
 友人に頭山翁の縁故の柴田文城がゐた。「所謂筑前風にて大言壮語を辞せず」「畏敬するとにはあらざれども、省みて我が短を補正するに足りた」。
 杉山茂丸を頭山翁に紹介したといふ八重野範三郎は、師範学校の校長。八重野は佐久間象山に心酔してゐた。佐藤は公私共に薫陶を受け、臨終には下着を遺品として譲り受けた。最期に「自分はこれだけの高齢となっていたことを忘れていたのが誤りであった」と言ったといふ。

 八重野の推薦で佐藤が赴任した学校では、後藤兄弟の兵式教練を受けもった。長男の後藤武夫は日本魂社社長。次男は後藤貞夫陸軍大尉・敦賀町長。三男後藤多喜蔵は門司・久留米両市長。四男後藤兼蔵は陸軍少尉。
 勉学は井上円了の『哲学館雑誌』をよく読んだ。また久留米の貸本屋、蟠竜堂の月二、三回の巡回が楽しみで、川崎紫山の『世界百傑伝』など新刊を閲覧した。
 早稲田時代の友人は小山田剣南こと小山田淑助。高田早苗の甥。よく撃剣の相手をした。「彼至って高山彦九郎を尊敬し、その居を訪えばまず自筆の下手な彦九郎の肖像を壁に掲げ崇拝甚だし。彼の筆になるその肖像の不細工で奇異なるに、一は驚き、一はその熱意を感じたるを覚ゆる」。
 目覚めの体操が大声だったので、田山花袋もこの声で起床してゐた。作品中に、佐藤がモデルと見られる人物もあるといふ。
 その後大学を卒業して、官途の振出しが内務省警保局図書課属。来年に続く。