文壇の面汚し‐花見達二の深沢七郎批判

 評論家、花見達二『日本は侵略されないか』(新紀元社、昭和37年5月15日発行)に深沢七郎の風流無譚批判。

 

 深沢作品のようなものは最下級の作品ですらない。キ辯に富んだ辯護弁明がおこなわれても、皇室人に対して脅迫をあたえるような醜悪な意図がアリアリと存在しており、それが目的として描かれている以上、これは文学でも芸術でもなく、むしろ脅迫文書であり、アジビラのたぐいに属するものである。(p250)

『風流無譚』のごとき産物は、すでに世間の批判が一致して最下等の破壊文書、暴力文学と刻印がおされているが、これは単なるイタズラや無知文士の悪[思]いつき作品とはいえない。文学そのものの冒トクで、すぐれた芸術家はどんなにも迷惑しよう。(p254)

 

 心から万人の読者を魅了する力もなく、自信も持ち合わせない作家が、実在人物を作品中に登場させて『実在人物が登場する』という興味で読者を釣ろうとする傾向がある。明治、大正にもその例はあったが、戦後流行のひとつで、小説家が創作力の貧困を、このような方法でとりつくろい、あるいは読者の卑俗な興味にすがりつこうとする下等な心事によるものである。その結果、実在人物に迷惑を及ぼして省みないばかりか、問題となれば『あれはすべてフィクションである』とか『作品に登場している人名は偶然に実在人物と一致したものだ』とかいう卑怯ないいのがれで、あからさまな非道徳のカゲでペロリと舌を出している作家、編集者をみることがある。その例は近年無数にある。これを具体的に指摘することも容易である。これらは骨をけずって優れた作品を世に問うている作家にとっては、文壇の面汚しであり、作家の名誉を全般的に損なうもので、作家同士としても迷惑千万なことである。(p251)


 花見は政治や時事についての文章が多いが、熱心な仏教徒でもあった。祖先は代々伊達藩家老。瑞巌寺は伊達氏の菩提を弔ふ仏所と見てゐた。家は曹洞宗だったが、母は大谷派の北海高女(大谷学園)教諭。花見は小さい頃に校長の清川円誠に会い、仏書を片端から読んだ。超宗派の某業界新聞迄購読してゐた。
 やはり深沢を批判したのよりんも真宗の信者だった。二人共闘したのではないだらううか。