『祖国』を編集してゐた水谷まさると柴野民三

 『随筆サンケイ』(サンケイ新聞出版局)の昭和38年6月号(10巻6号)に、雑誌『祖国』のことが出てゐた。北一輝の弟、北署吉主幹の思想雑誌。当初は総合雑誌風で、文芸作品も載ったが、のちに団体の機関誌になった。
 絵本作家、柴野民三が「放尿放談」で回想するのは昭和18年夏。地元の巡査から同行を要請されるところから始まる。柴野は童話作家水谷まさる編集長のもとで、3年ほど『祖国』を編集してゐた。水谷は北の隣に住んでゐた。『祖国』奥付では水谷勝。当時柴野は、関係してゐた小川未明主宰の『お話の木』が廃刊になってぶらぶらしてゐた。

水谷氏から『祖国』を手伝ってくれないか、とさそわれたのである。児童文学と思想雑誌とでは、無関係のように思われたが、文学をやるひまは十分あるからというので、はいっ〔て〕みると、百頁ほどの雑誌でも、ほとんど自分ひとりで編集をするので、なかなか骨が折れた。それで、結婚を機会に退社して、児童文学に専念することにした。

 『祖国』はのちに弁護士になる正木ひろしも編集してゐたことがあり、別に右翼雑誌ではなかったと言ってゐる。藤井真澄を後任にして退社したあとも柴野は北と会ってゐて、退役海軍中佐と北の放談を聞いたこともあった。その内容が流言飛語だったとして、東条英機と仲が良くなかった北が睨まれつかまった。それで柴野も取り調べられることになった。
 タイトルは府中警察署で何時間も小便を我慢したといふ内容で、その苦しさと解放感を描いてゐる。警視庁での聴取のさまもわかる。

警部は、手をかえ、品をかえ、コーヒーを出したり、うな丼をたべさせたり、おどしたり、すかしたり、まるで三百代言と執達吏とたいこ持ちを重ねたようにせまった。たしかに聞き出し方はうまかった。

 昭和18年当時、カツ丼ではなくてうな丼を食べさせてくれたらしい。

 「一人一話」の渋沢秀雄も昭和18年の出来事。日劇舞踊隊を率いて上海に行ったとき、田辺宗英の紹介名刺を持ったボクサーが来訪。彼の小屋での舞踊公演を断ると睨んだり脅したりされた。舞踊隊の公演切符を何十枚かあげることで落着したが、その届け先の様子も怖い。これは渋沢とは別の社員の話。

「気味がわるかったです。多勢若いものがゴロゴロしてるところへ案内されて行ってみると、押入れから刀を出せとかなんとかいって、束になった刀を出してね、見てる前で抜いたりなんかしてさんざんオドカしておいてから、キップをもらいました」