川上親晴警視総監「寧ろ悪の極に達すべく努むる覚悟なり」

 
『大国民』第54号(大正二年一月号)は、犬養毅や吉植庄一郎らの政論、即位式など硬派の記事が多い。発行兼編輯人は今井忠雄。諒闇欠礼の名刺広告には、大きく村松恒一郎、その後に今井、石崎健雄、江口村太、高橋秀臣、高畠實、中川傳蔵、森山波三、須藤光輝(南翠)。皆愛媛の人たちか。

 時は桂内閣で、茅原華山は元老会議を「アレは悪魔の会議」だと腐してゐる。無記名の時評では、新任の川上親晴警視総監を指弾してゐる。桂太郎が警察政治の家元、大浦兼武内相と共に任命した。
 この二人の任命を受けて、記者子は「売られたる喧嘩は買はざる可からず、民間党亦た緊褌一番せよ」と息巻くほどの問題人事であった。その理由はかう。

新任警視総監川上親晴氏は明治三十八年の日比谷事件を挑発したる張本人なり、而して彼れは其就職前既に傲語して曰く警視総監は職務上世間より悪人視せらるゝ以上、五十歩百歩ならば寧ろ悪の極に達すべく努むる覚悟なり、夫れに付けても彼の焼打事件の当時不肖が警視庁第一課長として振つたる蛮勇を想起せざるを得ずと、腕を扼して揚々たりしといふ、 

 本当にかう言ったのかと思ふほどのヒールっぷり。どうせ悪く思はれるのだから、徹底的に悪くなってやると言ってゐる。