水谷安子「そうだ狢に食べられて死のう」

 『夜明けを信じて』は水谷安子著、平成13年9月発行、出版社不明。正誤表付き。まえがき・第一章から第十五章・あとがきの198ページ。巻頭写真は8枚で親族の記念写真が多い。水谷自身は幼少期のものと小さな横顔のみ。

 大正2年、満州奉天生まれの著者の自分史。各章が数字だけなので分かりにくいが、読んでみると大正から終戦時までの半生が克明に記録されてゐる。親戚や無名の隣近所の人、同級生、社会主義運動の人々が登場する。

 父の佐藤才太郎は奉天薬種商をしてゐた。ペスト流行時にも商機を逃さなかった。

誰もが恐ろしくて外に出ず、堅く戸を締めて震えおののいているというのに、父はこの機会とばかりに外に飛び出し、各病院を廻り、薬を売り込んだのです。機を見るに敏で、危険も恐れず、勇猛果敢とは、実に男らしい人です。

「薬につきものの麻薬もどんどん扱って、ぼろ儲けもしています」。しかし大正4年11月に交通事故で死去。一家の生活は暗転し、日本での苦労の日々が始まる。転居先では暗くなって電気がつく前に帰宅するやうに言はれてゐたが、遊びに夢中で気が付いたら電気がついてゐた。そもそもまだ時計の見方も知らないほど幼かった。一度締め出され、後日また同じ失敗をしてしまった。もう死ぬしかないと思ひ詰めた。大人たちから以前、言ふことを聞かないとムジナに食べられるぞと脅されたことを思ひ出す。

そうだ狢に食べられて死のう、と決心しました。何でも、外にいれば夜中に狢が現れるに違いない、と実に幼児らしい発想です。

 他人の家の軒下で狢が来るのを待ってゐたら、その家の小母さんに発見された。学校や住居を転々とする。5、6年生のときはのちの大宅壮一夫人となる奥田昌先生に教はった。上京後は田中角栄も通った中央工学校で理数や英語、製図を学んだ。

無試験で卒業証書も要らない呑気な学校で、女学校卒で入学しました。当時左翼の人達が、いろいろ運動中に資格を得る必要で、この学校を卒業した人達も結構あることを後に知りました。

 この学校を卒業して就職したが、夫の水谷信雄が何かの集会に出席したことで逮捕された。安子も即日クビになった。もとの学校に再就職を頼むと、日産自動車を紹介されて採用された。学校では左翼の人達でもよく斡旋したやうだと記してゐる。

 戦時中は姉の不敬事件に連座した。

次第に激しくなる戦争を呪い、その戦争の大もとである天皇を呪い、天皇一家を殺しても飽き足らないように喋ったそうです。

「皇国思想のガリガリ」の知人にどうしてそんな本心を語ったのかと姉に聞くと、表向きは話を合はせるので気づかなかったのだといふ。夫もその仲間の左翼グループもつかまってゐる。南京虫が出るので部屋の中央で寝たなどと、安子も留置所での経験を述べてゐる。

 献呈の紙片には「突然の送本ですが拙い自分史をどうか御笑覧下さい」云々とある。