森比呂志の母「一人じゃ御輿は担げない」

 『川崎物語 漫画家の明治大正昭和」は森比呂志著、彩流社、昭和59年11月発行。森は明治45年4月、神奈川県生まれ。漫画家だが絵は表紙回りと各章のとびらだけで、文章で自身の生ひ立ちや川崎の情景をつづってゐる。父は石工の監督をしてゐて、暮らし向きは悪くない。学校を卒業した著者は家業を手伝ったり遊んだり、工場に働きに出てみたりと自由に暮らしてゐる。漫画については本の後半にならないと出てこない。

 川崎は江戸時代から水質が悪く、工場ができてからは肺病患者も多かった。友達が何人も顔色が悪くなって、結核になって亡くなってゐる。弁当は飯の上に海苔やイカの焼いたの。同級生はご飯なしで、新聞紙にくるんだ竹輪3本だけの子もゐた。竹輪を知らなかった著者はためしに食べてみて、衝撃を受ける。「こんな旨いものがこの世にあろうとは思わなかった」。昭和初年にキャラメル工場で働くやうになって、川崎駅前のパン屋の2階で、女性とフルーツポンチを食べた。女性は涙ぐんで「夢のようなの。とっても嬉しいの」と感激してゐる。

 関東大震災の際の朝鮮人騒動も描く。井戸に毒を入れられたなどといふ噂が広まり、自警団が組織された。しかし森の父はそれに加はらなかった。朝鮮人と親しかったからでも、噂がデマだといふ確信があったわけでもなかった。父はもともと徒党を組むとか寄合をするとかをできない性格で、消防団にも入らなかった。母は折々周囲に謝罪し、入り婿の父を罵倒した。

「この甲州の山猿め、お前さんの国では、みんな、てんでんばらばらに暮しているのかえ。だからお前さんの村じゃお祭も出来ないだろうよ。一人じゃ御輿はかつげないからね」

 隣近所はみんな力を合はせて暮らすのが当たり前なのに、こんな大変なときにさへ協力しない。そんな夫を、ふるさとまるごとひっくるめて非難する。そのときに引き合ひに出したのが祭りや御輿だった。渥美勝や丸山眞男のやうな学歴はないであらう、庶民の御輿論

 漫画とのきっかけは、石工の仕事先で見かけた報知新聞の社告。長編漫画を募集するもので、1等600円。1年分の給料に相当する。10日で描き上げ、見事当選。婦人雑誌などにも作品が掲載されるやうになり、地元で顔が知られるやうになる。

 父は、ポンチ絵で飯が食へるものか、石工の仕事はなくならない、と理解を示さない。仕事先の住職の娘は漫画に興味があり、著者が漫画の作り方を説明してゐる。

 バナナで滑った人がゐても、それだけでは漫画にならない。

「…バナナの皮ですべった主人公はツルリと天に跳ねて人の家の屋根の上に落ちた絵を描く。これを見て読者は声をたてて笑うでしょう。これは奇想天外だからです。そしてこんな馬鹿なことはあり得ないでしょう。あり得ないということは、実際にはこの世ではタダでは見られないということなのです」

 見かけたことをそのまま描くのではなく、机の上で構想を練る。さうして考へたぶんが評価され、原稿料となって作者に支払はれる。漫画の作り方を言語化した早い例ではないか。