キササゲで儲けた栗原廣三

 『自伝対談 薬学の創成者たち』は伊沢凡人編著、研数広文館発行、昭和52年12月発行。伊沢が聞き役となって、21人の薬学者たちに自伝を語ってもらってゐる。それぞれの扉ページに略歴があり、人名事典の項目のやうに詳しく書いてある。

 文学者の家族もゐて、薬学以外の話にも読むところがある。山本有一は作家、山本有三の長男。家庭での有三について、

そとには、朝日の旗を立てたオートバイが待っている、社からはジャンジャン電話で催促がくる、父は一行も筆が進まない(笑)。

 と、ピリピリした雰囲気だったといふ。他人からは良い父親だと羨ましがられたが、実際は違った。蔵書は1万冊で、どれにも傍線が引いてある。

 辰野高司は仏文学者の辰野隆の次男。田中英光椎名麟三野間宏らとアヴァンギャルド文学運動や「夜の会」をしてゐた。その仲間の五味康祐が真剣に文学に向き合ってゐるのを見て、薬学に本腰を入れるやうになった。

 21人のうち一番魅力的なのは栗原廣三。明治21年5月、川崎町生まれ。佐藤惣之助らと文学を論じ、社会主義にも親しんだ。のちに転向し、安岡正篤の金鶏学院の講師になってゐる。転向の理由について「彼らには情がない。人間的つめたさに、すっかり嫌気がさしてしまった」。と吐露してゐる。戦時中は満蒙に薬草調査に出かけてゐる。昭和18年ごろには学院の同志らと食糧協会を設立。東条英機首相の資金で、役員には迫水(久常)も名を連ねた。ハトムギを食糧にする計画だったやうだ。

 『婦人俱楽部』『主婦の友』などの婦人雑誌には代理部といふのがあり、通信販売を行ってゐた。栗原は、キササゲの広告を載せてゐた。キササゲは細長い実をつける植物。主婦の友社はこれで売り上げを伸ばした。編者の伊沢が次のやうに回顧してゐる。

あの社があんなに大きくなったのは、雑誌よりも代理部の力だという話があり、その代理部を儲うけさせたのは、栗原さんのキササゲとかフジバカマ? だったという説がありますが……。(笑)

 雑誌本体よりも、代理部の方が売り上げに貢献したとする見方。これは現代でも雑誌の付録次第で売り上げが大きく変はるのと通じるものがある。