山本初太郎を頼った、はれやか本舗の中島虎雄社長

 続き。借金のため、友人知人、初対面の人、文化人を訪ね歩いた山本初太郎。出会った人々を実名で書いた原稿千数百枚を平凡社下中弥三郎に持ち込んだ。出来栄えを褒めながらも、すべて実名であるため、金庫の奥深くにしまはれてしまった。次に菊池寛の手に渡ったが、戦時中に行方不明になった。

 戦後、新たに書き直して、やうやく原書房から『実録 文芸春秋時代』が刊行された。戦後のことは本文中には書いてゐないが、著者略歴によれば大阪日日新聞復刊に参画、日本輿論新聞社(現・関西新聞社)社主。現在、東京商工興信所編集部顧問。平凡社嘱託。

 大規模でない新聞社で働いてゐたやうだ。昭和の初め、政友会幹事長の森恪のもとを訪ねたときは、実業之世界の野依秀市のことが話題に上った。野依は田中義一首相から多額の金を何度ももらってゐた。森が田中に苦言を呈しても、野依をかばってゐたといふ。山本も正義感のある面白い人物だと評価してゐる。

 ある時は、日本画家の松岡映丘のもとを訪ね、松岡の絵を頒布して、その売り上げを山本の生活費に充てることを計画。菊池、下中、佐々木茂索を後援者、松岡を賛助者にした趣意書を自分で書いて、松岡に快諾してもらった。

 その後、松岡からの紹介だといって、山本のもとに電話がかかってきた。はれやか本舗の社長の中島虎雄と名乗った。会ってみると、薬の推奨文を文芸春秋の雑誌に載せてほしいといふ売り込みだった。

「実は先生、私のほうのはれやかというクスリは、いわば頭の栄養剤でしてね。ドイツからくる原料がたいへんなんで、全く日本では今までなかった高級薬です。宣伝をうまくして、ぜひ、大々的に普及したいのです」

(略)

「…一等よく頭をつかっていなさるのが、小説家の諸先生だと思いますので、私としてはまずそういう文士の方々に、これをためしてもらい、そして、ほんの五、六行か十行で結構ですから、はれやかは頭痛によくきく、また、頭を休めるために、はじめてできた頭の栄養剤である、というような文句を書いていただき、それを、先生方が新聞や雑誌で連載していなさる小説のあとへもっていって、のせてもらう。そういう宣伝がしたいのです…」

 はれやかといふ薬、山本も文士たちも飲んだ様子がないが、推奨文を載せることになった。協力者は吉川英治野村胡堂村松梢風尾崎士郎山本周五郎ら十数人。しかも全員、山本を信頼して、推奨文を代筆していいといふ。 

 後ろめたいことをしてゐるやうな気持ちはなかったやうだ。このはれやか推奨事件の顛末がどうなったかといふことも、包み隠さず描かれてゐる。

 生田長江も訪ねてゐる。ハンセン病に冒されてゐた生田への、山本自身や周囲の反応がありのまま描かれてゐる。復刊などは敬遠されるかもしれないが、却って読まれるべきかとも思った。