岩戸町の盲女を助けた正木彦二郎

 掘り出した。『橙陰遺稿』は奥付なし、はしがきは大正11年10月。正木彦二郎(号は橙陰)の漢詩和文、追悼の詩文をまとめたもの。

 正木は慶応3年7月、熊本生まれ。元田永孚の下で学び、詩文に長じた。参謀本部出仕。陸軍省で戦史編纂に従事。のち川崎造船所に17年勤務。大正10年10月没。弔文の国木田北斗は国木田独歩の弟。小山田剣南も後序を寄せ、正木は元田の衣鉢を継ぎ、勢有汗馬空之概、蓋天授之才也、などと綴ってゐる。

 和文に「耳は目なり(一つの奇遇)」がある。12年前の2月の夜のこと、一人の婦人が佇んでゐた。聞けば最近両目の視力を失ひ、方角が分からず困ってゐるとのこと。そこで正木が送り届けることにした。家は岩戸町の寺の近くだといふ。正木は当時23、4歳の青年。「夜半杖を執り手を携へて、男女相ともに行くは、心中幾分羞思あり」。男女で手をとって歩くのが恥ずかしかった。そこで自分の袖を握ってもらふことにして、ゆっくり歩いて明るい神楽坂までやってきた。初めて見る彼女は17、8歳。愛嬌があり温雅な挙動だったといふ。無事送り届けて名前も告げずに立ち去った。

 時は移り今年の2月、人力車に乗るために車引きと話してゐたところ、後ろから婦人に「もしもし」と呼びかけられた。「…斯く申する賤女が難義をばお救ひ下されたる御方には候はずや」。正木は、確かに昔そんなことがあったと答へた。しかしなぜそのことを知ってゐるのかと訝しんだ。

「…全く天道の情けある導きにや、正しく夫れと聞き覚へある御音声嬉れしき賤女の心の中如何計りかは、斯く外聞さへも憚からず、伺ひ参らせし次第なり」

 なんとこの婦人は12年前に正木が助けた本人だった。偶然聞き覚えがある声がしたので、話しかけたのだった。12年間、その声を記憶してゐた、盲女の驚異の能力。今度は住所や名を教へ、再会を約して別れた。

 奇遇の三日後にこの文章を書いたといふ。壬寅とあるから明治35年。この12年前だと明治23年になる。正木と盲女との出会ひと奇跡を美しく描いた名文。視覚障害者への声かけの模範や奨励にもなる。教科書の舞姫と入れ替へてはどうだらうか。