若宮卯之助に片寄ってゐるといはれた茂木久平

 『東京案内』は黄土社発行、第2巻第2号は昭和30年2月発行。表紙は三浦乃亜。「東京を知りたい知らせたい雑誌」を謳ふ。

 この中で「早稲田大学の青春」と題して、尾崎士郎と茂木久平が対談してゐる。尾崎の全集の年譜には記載がなかった。日比谷の陶々亭で行はれたもので、横顔の尾崎と談笑する茂木の写真も大きく載ってゐる。早稲田の学生生活や周辺の思ひ出話に花を咲かせてゐる。尾崎は他に回顧する文章があるが、茂木の対談は珍しい。

 当時の早稲田は年を取った人も多く、田舎の郡長や警察署長もゐた。その中で一番年少だったのが二人だった。知り合ったのは19歳で、4月に尾崎が正規で入学し、9月に茂木が編入してきた。尾崎がA組、茂木がY組だったが、茂木が一番威張ってゐたので知り合った。売文社のあった山カン横丁はブローカーの巣で、正業は売文社と服部浜次の洋服屋だけだった。そのくだりで若宮卯之助が出てくる。

「中外という雑誌が懸賞論文を募集したことがあつて、ぼくも応募したが選にもれたんだ。その選者が若宮さんでね。その選後評に、茂木の論文は意見が片よつているから取らない。しかし文章は一番うまいとあつた。 

 若宮は反猶主義の原理日本社同人。どちらが片寄ってゐるのか。その後若宮が主筆をしてゐた中央新聞に論説記者として採用されたが、出社しても書かなかったなどと大らかな時代だった。東京出身で政治家になりたいといふと、江戸っ子は政治家に向かないと反対されてゐる。

 尾崎は高畠素之の元にゐて、兄弟分として遇された。高畠は弟子には古ズボンなどをあげてゐたが、尾崎にはくれなかった。

それで、ぼくはいつも尻に大きな穴のあいたドテラなんかを着ては吉原へ行つていた。(略)吉原には牛太郎がいて、先生とか旦那とかいつて客を呼ぶものなんだが、ぼくはあまり変な恰好をしているものだから呼ばないんだ。(笑)

 尾崎はミルクホールで偶然読んだ時事新報で懸賞小説を知り、一晩で書き上げて2等に入選した。呼ばれて入り浸ってゐたらこんなこともなかったかもしれない。

 

 

 

 

・山中浩市原作・そやままい漫画『まんが護国神社へ行こう!』読了。兄のまもるは剣道が得意、妹のミクは勉強が得意。2人が狛犬の精に出会ふのだが、名前もつけられてゐない。2体一対の筈なのに1体しか出てこない。こちらも兄妹にするなどして、ちゃんと名前をつけてあげてほしい。英霊さんが現れるが、こちらも名前がない。狛犬の精は2人と話したり空を飛べたりする。英霊さんが突然登場するのではなく、狛犬の精のふしぎなちからで召喚するなど工夫がほしかった。注の飛驒が飛彈。

 巻末のQ&Aが難しい。「〇〇県護国神社は、県が護国神社の維持費を出しているのですか?」といふ疑問がこの本の読者層から出てくるだらうか。「おさいせんはいくら出せばいいですか?」「ペットとおまいりしても大丈夫ですか?」などの方がよい。神奈川は新しく出来た。

 桜をきっかけにする導入部分は良いので、あとはなぜ2人が護国神社を好きになるのかを丁寧に描いてほしかった。剣道が得意な設定を生かし、境内の凛とした雰囲気が気に入ったとか、妹はもともとボランティアに興味があったとか、読者が納得するやうな筋立てにするともっとよかった。