松村たけ「女子が作ったものだけで博覧会を開きたい」

 『修身教育 子供演説』は斯波計二著作兼発行、学友館発兌、明治22年12月出版。子供の演説を集めたもの。…の筈だが、名前が日本桃太郎や甘井菓子郎、鞠子倒助(ころすけ)などとおちゃらけてゐる。著者が創作した架空の人物のやうだ。しかし発想は現代人が読んでも面白い。ここでは女児演説の4つを取り上げる。ルビ等は適宜。

 「鏡は女の魂」といふ波本静子。鏡を見てゐて気づいたが、世間の人が私に向かっていい対応をしたり悪い対応をしたりする。これは鏡のやうなものだ。自分が世間の人にいい対応をしたら相手もよくしてくれる。悪い態度でゐたら相手も悪い態度をとってくる。「我身の行ひを慎みなされましよ」と聴衆を戒める。なるほどもっともだ。

 次の鶴見かめも鏡がテーマだが、ちょっと見方が違ふ。鏡を見るのは大事なことだが、朝夕鏡を見てばかりゐてはいけない。

兎角鏡に向て吾が容貌を眺めることの多き女子は、書物を見ることや裁縫(たちぬひ)の仕事を務むることの少ないので御座ります…余り多く鏡ばかりを見て居て読書や裁縫の妨げをなしてはなりません、

 鏡を見るよりも、読書や裁縫などの有意義な時間を持つべきだといふ。

 松村たけは「博覧会を観て感あり」。何人かで上野の博物館に行った松村。いろいろ美しいものがあって、目がくらむやうだった。二、三時間も見て回った。しかしあることに気づいてしまった。その展示物の99パーセントは男の手で作られたもの。女子のものは1パーセントもないだらう。男女同権の道は遠い。

一層学問を勉強致しまして行く行くは嬢等女子(わたくしどもをなご)の手ばかりで作りました博覧会でも開きたう御座ります、

 女子が作ったものだけで博覧会を開きたいといふ提案に、ある人は涙を流し、ある人はむせび喜んで賛成した。演説会場でも「諸嬢皆な涙を流して賛成しけり」。

 櫻木花子は「女書生の風体に就て」。女学校の書生は風体や挙動が女のやうでもあり、男のやうでもあり、得体が知れない。

実に男でもなく女でもなき一種の化物のやうで御座ります(衆皆な莞爾(にこにこ)として拍手喝采せり)

 ではなぜこんな「一種変妙な風体」が生まれるのか。櫻木は自分の意見を述べる。男の場合、少し読書したからといって生意気になったり物知りぶったりしない。それは男はみな、普通の教育を受けてゐるから。ところが女子の多くは無学である。

多くの無学の女子の中よりたまたま一人の書生が出ますれば、其れは格別に目立ちて見えまするから、其書生の身にも亦自ら何となく物知りの如くに思ハれまして知らず識らず生意気になるもので御座ります

 世間一般の女が無学だから、さうでない一人が目立つ。生意気にもなる。もしも生意気な女を直したいと思ふなら、世間一般の女が教育を受けて、全体を底上げすればよい。この演説の締めくくりもまた、拍手喝采