天照皇大神は女性の世界的救主也

 『女性の光』(明治四十三年一月八日発行、大正十一年九月廿日再版)は僅々24頁の小冊子。神道が世界にも稀な女性崇拝の宗教であると宣揚したる論で、眼から鱗。

 女性には男性の到底企及すべからざる高貴にして且つ偉大なる光がある。この光があるに依て人間社会は初めて明かるく、希望と喜悦と活動と調和と生命とを得るのである。女性は斯くも偉大なる光を有して居るにも拘らず、世界の到る処に於て女性を卑下し抑圧して居るのは、抑も何の故であらうか。是れ世界の宗教と云ふ宗教は皆な異口同音に女性を下しめてゐるが為めと云はねばならぬ。何と甚たしき誤解ではあるまいか。世界の大宗教と言はるる儒仏耶の三教には或は学ぶべき真理も含有して居るかも知れないが。斯の女性の高貴にして而かも偉だけれども大なる光を認め得なかつたのみならず、却て女性を以て暗黒い陰あるもののやうに見て居ることは決して学ぶべきことではない、寧ろ大に其の迷矇を排斥してやらねばならぬことと思ふ。今試に世界の三大教と称せらるる仏耶儒に就て其の女性観の一班を褰げ、如何に斯の女性に侮辱を加へられて居るかを述べて見やう。

 
 ○儒仏耶の女性観


 先づ女性を悪観すること、恐らくは仏教より甚だしきはあるまい、其の説によれば女人は男子よりも罪業深くして其の女人の形を有して居る以上は、如何に難業苦業するも仏となることはできない、一度男子に生れ更はり夫れからまた男子のやうに修行して漸く仏となり得るものとしてゐる。是れを言ひ換へれば女子は男子と同じ人間ではない一段下等なる一種の動物であると云ふことである(略)

 然らば儒教はドウであらうか、之れまた女性を卑下すること甚たしきものである。女子と小人は養い難しとか、或は三従の道とか甚たしきに至つては子なければ去るなどと云つて、男尊女卑の極端なる主義を唱導して居るのである。(略)


 ○大和民族の女性は寧ろ男子以上なり

 大和民族の女性は寧ろ男子以上に高貴で且つ偉大なるものを有して居つたことは。未だ儒教や仏教の感化の及ばない以前の純粋なる大和民族の女性に就て見れば頗る明瞭なるものである今は紙数に限りあるを以て一々例証を挙ぐる能はすといへとも、我国の神代記を虚心に読むものは誰れしも首肯するところであらう、実に大和民族の女性は古来頗る気高きものであつて、決して卑屈になるものではなかつた、本邦の女性には往々男子も及ばざる勲功立てたものは尠なくないことは歴史上の事実である。是れ蓋し神代に於ける女神の雄々しき気高き美質を伝来せられたるに依るものであつて儒教や仏教の感化に依つて出来たものでは毫もないのである。(略)実に当時は女性が主であつて、男性は客である、高天ヶ原の経営は皆な女性の神々の手によつてせられたものである。世界広しといへとも、女性の光を最も高潔に最も偉大に発揮したものは、我が大和民族の女性に及ぶものはあるまい、我々祖先即ち儒教や仏教の伝来以前にあつては女性に対する観念は決して今日のやうな一種卑下的な且つ弱者てふことは毫も有して居なかつたものである、又た女性も自重自信して男性を率ひ、今日で云ふ男性の煩悶などは、女性か訳もなく解決して慰安を与へ常に光明と希望とを付与したものである。即ち天照大神、伊斯許理度愛命、天宇受売命、須世理毘売、雉名鳴女、天佑具売、高比売命、石長比売、此花咲也姫命倭命の伝は我々に其の例証を与へて余りあるものである。

 
 ○天照皇大神は女性の世界的救主也

 猶ほ繰返して云へば以上の女性の神々は智勇に於ては少しも男性の神々に劣り玉はざりしなり。卑屈などいふことは露程もなかつたのである。従つて今日の女学生や、妻女に多くあるヒステリーとが煩悶とかは夢にも知り玉はなかつたのである。而して天上天下の事は常に男性の神々を凌いて経営なされ、男性の神々はまた事をなさんとし玉ふに当つては必ず女性の神の力を籍り玉ふたのである。斯くして女性の神の御地位は男性の神の御地位に劣り玉はざりしのみならず、其の最上の神は実に女性の天照皇大神であつたではありませんか、極言すれば大和民族の女性は男性以上である、大和民族の真面目は一種の女性崇拝である、女性にして最上の神位に在り其処の高貴にして而かも偉大なる女性の光を発揮し玉ふた我が天照皇大神はただに大和民族の女性の為めのみならず、又た実に全世界の女性の為めに大気焔を吐き玉ふたものである。故に天照皇大神は女性の世界的救主たるべき権利を有し玉ふのである。


 これで約半分。続きの小見出しは「日本女性の可能性」「神道純愛教は女性の宗教なり」「純愛教は人情自然の発展なり」「日本人にして女性を卑下するものは一種の不敬漢なり」「速やかに天照皇大神の御手にすがれよ」。最後は詩のやうな「純愛の御酒」。

 発行所は神風会出版部。著者名はないけれど発行兼編輯人は宮井鐘次郎。