怒ると言葉が丁寧になる大谷光瑞

 『上海へ渡った女たち』は西沢教夫、新人物往来社発行、平成8年5月発行。面白かったので文庫などで再刊してほしい。

 ユダヤ問題の研究家になる新明きよ子、男装の麗人といはれた川島芳子大谷光瑞の秘書になった井上武子の3人について、魔都・上海を絡めて描き出す。

 新明は婦人毎日新聞、帝都日日新聞、週刊よみものの記者。しかしどれも長続きしない。ライフワークを探してゐたときに雑談の中から、五輪のマークがフリーメーソンのマークなのだと耳にする。「きよ子は、この一言に飛びついた」。仏英和女学校時代や家族関係なども、証言や資料を駆使して調べ上げてゐる。

 川島芳子についても同級生らにインタビューしてゐるが、各人各様で印象が違ってしまふ。養父の川島浪速の関係から芳子の写真を探したり、取材を重ねる。芳子自身の手記と新聞記事で異なる断髪の時期について、その真相を追究するさまが白眉。著者の西沢が国会図書館で新聞を閲覧する様子が出てくる。「ひどくおっとりとしたエレベーターで四階まで上がれば、そこが新聞閲覧室である」といふ描写が的確で可笑しかった。

 井上武子が接した大谷光瑞の言動には目を見張らされる。植物の名前を次々に教へる博覧強記、戦時中のエキセントリックな発言。「猊下は怒ると、普段より言葉が丁寧になるんです」と、光瑞激怒の口調も紹介してゐる。

 それぞれの伝記が3部構成で描かれるが、第3部には井上だけでなく芳子や新明、のちに新明の夫となる犬塚惟重も登場。舞台となる上海が見えてくる。

 

・『女スパイ鄭蘋茹の死』橘かがり著、徳間文庫、令和5年3月刊。文庫書き下ろし。実在の人物と事件に材を取った長篇歴史サスペンス。

 冒頭が鄭の処刑から始まり、書名にもその死を掲げる。あとから日本人の花野が当時の様子を探るといふ筋立て。最初に死んでしまふのでしんみりした気持ちになる。最初は処刑前の軟禁状態の時点でとどめておくと、後の展開が気になるやうになったのではないか。書名が『女スパイ鄭蘋茹生存説を追う』などだったら読者が期待感を持ち、面白く読めただらう。鄭の家族思ひの心情はよく出てゐるので、その部分に焦点を当てた『家族を救った女スパイ鄭蘋茹』も候補に挙げたい。帯は「上海のスパイ×ファミリー」が使へないか。花野の北海道独立運動で1章を立て、上海と対比させてもよかった。上海の魔都ぶりをもっと盛り込んでもよかった。