鄭漢永「ここにいる日本人には何の罪もないのだ」

 『私は神を見つけた』は鄭漢永の著。出版社名なく、著者の豊島区の住所が載ってゐる。昭和57年11月15日発行。帯に「神とは何んぞや?」「このままでは、ノストラダムスの予言通り末世は必ず来る。そして人類は滅亡する?」ともあり、一見するとオカルト系・トンデモ本だ。
 ところが裏の帯には「これは、戦前や終戦直後の日本の実体をよく見てよく知っている一韓国人の物語りである。」「これはすべて真実そのままを記録したものである。」とある。中を見ると、前半は著者の主張や宗教観が披瀝されてゐるが、後半は戦前戦後の日本における韓国・朝鮮人の姿を記録したものになってゐる。
 戦前は朝鮮人援助、戦後は反共と日韓友好運動に取り組んだ。有名人や政治家との関はりも詳しい。
 大阪にやってきた鄭は洋装店で働きながら、のちに靖国寺を建立した中井祖門に学んだ。差別と闘ひながらやがて自分の店を構へ、日本人と結婚して子供も生まれた。不良集団の白骨団に入るが更生し、正義団とする。一條侯とあるから、一條実孝だらう、その敬愛連盟半島担当として活躍。南次郎総督に、内鮮一体といひながら朝鮮人に義務教育がない理由、内地に渡る渡航証明が必要な理由などを質してゐる。昭和17年、大阪毎日新聞社内に厚生温談所を設置。在日に慕はれてゐた西村真琴(學天則発明者)を本部長、自身を副本部長にして同胞擁護に取り組んだ。
 町村金吾警保局長と上村健太郎(のちの航空幕僚長)には特別に援助を受け、南方に送られさうになった同胞の労務者22人を解放させてゐる。 
 戦後の韓国人の姿にも触れてゐる。貨物車で鹿児島の妻の実家に帰るとき、日本人は立たされ、韓国人は大きな荷物と共に床に寝始めた。日本人が抗議すると、叩き出すぞと騒ぎ出す。鄭は韓国語で彼らを起こし、同胞に訴へる。

「今われわれが帰国するにあたってこんなことではいけないと思う。ここにいる日本人には何の罪もないのだ。この人達は、自分の国が戦争に敗けてしまったばっかりに、われわれに何をいわれても何一つ言い返すことすら出来ない立場にある人達だ。見ろ、可弱い婦人達が倒れているじゃないか、われわれはこんな非人道的なことをしてはいけない(略)」

 このおかげで、日本人も座っていけることになった。
 鹿児島では反共同志会、大阪で韓国難民救済会、東京で日韓友好協会を組織し、それぞれ会長に就任、朝鮮総連に立ち向かった。
 30枚ほどの写真も貴重で、厚生温談所発会式には佐藤大阪府副知事、石田大阪地検検事正らがゐる。また李王殿下、張勉総理、細川隆元安岡正篤、田内千鶴子、植村甲子郎、荒原朴水らと写ってゐる。
 年譜からは、議員会館をはじめ各地で精力的に講演会を開催してゐたことがわかる。昭和34年4月には佐郷屋嘉昭の斡旋で「日本右翼団体各責任者 二百名」を相手に日韓問題を論じてゐる。保守派や右翼とは反共の立場から協力してゐて隔世の感がある。

 通読すると前半の宗教論は、北の唯物論に反論する反共の立場からのものでもあったと分かる。鄭は1911年6月生まれで刊行当時71歳。妻子と別れ、神秘体験を経て、「魔鬼掃蕩撲滅」運動をしてゐるといふ。