淡海節でサッスーンと親しくなった村井順

 『波乱も愉し』(昭和47年、やえざくら発行)は表紙だけではわからないが、中の扉に副題として「不屈の人 村井 順小伝」とある。村井順は初代内閣調査室長にして綜合警備保障の設立者。本書はその伝記。業界新聞の連載30回分をまとめたもの。
 著者は市原鶏也。サンケイ新聞の元政治部長。前書きに「この小伝は、あまり出来がよろしくない。かなり苦心したつもりなのであるが、村井さんの内奥にひそむ滋味を描きえなかったからである」と卑下する。
 村井の波瀾万丈の生涯に比べると、本書はその点がないでもない。分量も含めて、村井の生涯を素描したものといへる。要所要所で気になる箇所がいくつも出てきて、もっと書き込んでくれれば面白くなったことと思ふ。『民警』には参照した形跡なし。
 紀州藩士の曽祖父は細面。村井の写真は高校時代からある。顔も体も昭和20年頃まで痩せてゐる。吉田茂の秘書官時代頃から、恰幅がよい西郷さん風になる。
 面接で天皇機関説に同調しても無事内務省に入省、山口県属を振り出しに福岡県防空課長を経て興亜院華中連絡部に転勤。仕事は上海の近くに新都市をつくること。
 英米との戦争を回避するため、ユダヤ勢力とも接近、安江仙江や犬塚惟重の名前も出てくるので驚く。上海財閥の大物、サッスーンと親しくなるため淡海節を修得。机に料理が並んだ席で一緒の写真に納まってゐる。
 内閣調査室、五輪組織委員、綜合警備保障と、日本初の仕事を次々に担ってゆく。ワシントン・ハイツのアメリカからの返還にも尽力する。
 警備会社設立後、早稲田にもガードマン100人を派遣、ゲバ棒学生3000人と対峙したといふ。

ゲバ棒に追われて大隈会館に逃げ込んだこともある。ガードマンの中には負傷者も若干でた。しかし、紛争に介入しないという方針がよかったのか、ガードマンにたいする批判はあまり聞かれなかった。