宮城音彌が警戒した読書教

 すてきな切り抜き。題して「読書教」。筆者は東京工業大学教授の宮城音彌。10月の読書週間に際して書かれた。

 宮城が小学3年生のころ、先生が言った。「本を開くとき、昔は礼をしたものだ」。その日から宮城たちは本を開くときに礼をするやうになった。この習慣は定着せず、現在の宮城は本を粗暴に扱ふ。ペンで書き込みをし、ページを折り曲げ、必要な部分を切り取る。

 本に礼をし、難解な本や難しい言葉をありがたがる、読書教信者といふべき人たちがゐる。宮城は彼らとは正反対の立場である。

書物をほかの商品と区別してありがたがることもないし、神社のお札と同視することもあるまい。

 読書はあくまで手段であって目的ではない。読書ということが尊いのではなく、本から知識を吸収し、これを利用することがよいことなのである。

 神道系の新興宗教が多くなった。かつて書物に敬礼した拝書教系統の読書教も盛んなやうだ。しかしいづれも警戒すべきものだとして、読者に警告してゐる。

 もう一つは「書物は道具である」。同様の趣旨だが、表現が異なってゐる。読書論の専門家は分厚い本や全集を読むやうに勧めるが、宮城の読書は違ふ。必要な部分だけ読むとか、パラパラめくって大意をつかむとか、情報を得るために読書をする。

 さっきの「読書教」の切り抜きでは、先生は昔は本に礼をしたと紹介しただけで、さうしろとは言はなかったやうだが、今度の切り抜きでは「本をひらくときはオジギをさせる先生があった」と、先生が拝書教の信者だったかのやうに描いてゐる。

 家具の一種として全集を買ふことも、装飾品として文庫本を買ふことにも理解を示す。たまにでも本を開けば、知識が増えるからだ。いはゆる悪書にも味方する。「字が書いてある以上、なにかの役に立つ」。

 宮城は読書教の非を鳴らすが、今度は活字中毒症的な別の問題が発生するのではないだらうか。