新渡戸稲造「忘れて仕舞つてこそ本当に本を読んだ値打があるのだ」

 続きと補足。悪書を読むのは、本を読まないことよりも悪いと論じた満尾君亮。しかし満尾と違ふ読書論も『心之種』には載ってゐる。
 水戸運輸事務所庶務係長の高梨茂吉が「読書の興味、選択法、読書法」と題して、長文を寄せてゐる。高梨は読書を熱く論じる。

 今仮りに、我々が書物なき世界に住みたりと想像せんか。吾々の生活は如何に空虚なものとなるだらう。吾々は如何に倦怠を覚えるだらうか。我々は慰安と銷閑とを何れに、如何に求め得るだらうか。我々は如何に低き知識を以て、文化を以て、その日々を送り、たゞ欲望の赴く儘に目前の野生生活を送るに違ひないだらう。

 書は文化人最大の恩人なりと称するも、敢て過言ではない。

 その高梨が紹介するのが、新渡戸稲造の読書論。出典未確認だがとてもいいことを言ってゐる。ある日門人が新渡戸に、「先生は大変沢山の本をお読みになりますが、ご覧になつた本を皆な覚えてお出でになりますか」と質問した。新渡戸は「そんな事一々覚えてゐる様では、本当に本を読んだ価値はない。忘れて仕舞つてこそ本当に本を読んだ値打があるのだ」と答えた。そのあとに言ふ。

「日光に色なく、又空気に味はひの無い様に本当に偉大なる思想とか一大精神とかいふ様なものは、吾々の身体に浸み込み何処へ行つたか分らなくなる。恰度大空の色の様に、本当の真理といふものは、却つて吾々が忘れて仕舞ふ。然もそれで読んだのが無駄かといふと、実際は吾々の血となり、肉となつて、時あつて必要となり、お役に立つ場合はいつなん時でも、滾々として尽きざる泉の様に出て来る様でなければ、充分とはいへない。読んだ事を一つ一つ鵜呑みにして覚えてゐる様では、未だ未だ其の間は、本当に自分のものにはなつてゐない証拠である。」

 忘れたやうなことでも、血肉となって吸収されてゐて、決して無駄ではない。

 『現代生活 ユーモア川柳集』は藤島茶六編(牧野出版社、昭和42年発行)。出句者の川柳に石丸弥平が絵を描いたもの。
 「検査官 これは悪書と 少し読み」の悪書は、白ポストから回収されたものだらうか。検査官がスーツにネクタイ、眼鏡姿で真面目ふうに読書をしてゐるけれども、読んでゐるのは実は悪書である。少し読みといふのは少し一杯の少しで、少しのつもりがつい読みふけることもあっただらう。なにしろ量には事欠かない。
 立ち読みではたかれたり、浪人が漫画を読んだりといふのも描かれてゐる。どれも当時は日常の風景だっただらうけれども、今はさうではない。浪人は少なくなって、息抜きする人もスマホを見てゐる。
 「大正の 初期に生れて やゝ右翼」は大正初期生まれの心情を描く。明治生まれほどの愛国者ではないが、大正デモクラシーやモボだと浮かれるわけでもない。中道か左寄りのはづだったが若人がどんどん増えてきて、やや右翼に当てはまるやうになってきた。なんでも世代論や元号の区分で割り切れるものではないが、この句はさういふ事を忘れさせる。