宜く書物之神学者之遠御祖之尊とも申すべきか

 『明烏迷の目醒 神道大意』は発行所、発行年を示すものなし。56ページの冊子。変体仮名が多いので明治半ばごろ発行か。表紙はいざなぎ・いざなみの両神にかささぎらしき鳥。神道の解説書かと思って読んでみると、ちょっと変はってゐる。

 和市は母と2人暮らし。

和市は人並みすぐれし寝坊にて喚起(おこ)す人さへ有ざれば一年二年は未おろか生涯をも寝ぼけて暮す 

  三年寝太郎のやうに寝てばかりゐて、母が呼んでも起きない。そこに友達の国吉がやってきて、やっと起こすことに成功した。起きた和市は神棚に柏手を打って、たくさんの神様の名前を唱へた。今日(こんにち)様、お月様、妙見様(略)…八百万の神神様といふので、あまりに数が多くて国吉は笑ってしまった。

 その後から全編にわたって、和市と国吉が神様談義、信仰問答を繰り広げる。国吉は、たくさんの神々をなんでもかんでも拝む和市の間違ひを指摘する。神様の利益を薬にたとへて、どれか一つ、確実に効く神様を選ぶべきだと説く。

 

薬をよく吟味して而て是なれば大じようぶ病気が癒る云事を見定て其を一つ而己(ばかり)飲ますれば間違が有ますまい

 

 そこでどうやってその神を選ぶかについて、神代の物語や本居宣長の説を参照しながら追究する。その中で出てくるのが書物之尊(志よもつのみこと)。書物之神学者之遠御祖之尊(志よもつのかみがく志やのとほつみおやのみこと)ともある。

 国吉は、紙は神なりといひ、書物を礼賛し神と称へた。それが書物之尊。

 

書物之尊と申しませうか何故なれば私よりも物識(ものしり)です私よりも学問上に於て勝れております是まで君にお話申た事も皆書物のカミから学びました書物は無声にしてよく人を教へ漏さず隠さず有のままを告げて何辺問ひかへすとも怒らず人に教て倦ず博識にして人に誇らず嗚呼其徳は高いかな宜く書物之神学者之遠御祖之尊とも申すべきか

 

 和市は「それでは何もかも皆神になってしまひます」「其書籍(志よもつ)を著作人(つくりたるひと)の方が尊ひかと思ひます」と、書物を神と崇めるのはをかしいと批判する。人間よりすこしでも優れたところがあれば皆神だといふのは、不合理だと訴へる。

 書物よりも、書物を書いた人の方が偉い。この関係を神様にも応用することで、話は核心に近づく。神道の霊魂や桃太郎にも話が及ぶ。

 次第に明らかになるのが、神道を信仰する者の代表が和市、基督教徒を代表するのが国吉といふ構図。そして和市の間違ひを国吉が諭すといふ論旨になってゐる。ただしゴッドや基督といふ言葉は明示されない。真の神、上帝、天などとほのめかされてゐる。

 それにしてもこの冊子、基督教風の表紙や書名だったら内輪の信徒にしか読まれなかっただらう。神道風のものにすることで、神道者が手に取るやうにしたのではないか。著者名や出版元の記載がないのも、先入観を与へないためかもしれない。 

 和市初出の部分は「和市とて一人の痴漢(しれもの)あり」と描かれてゐる。これは寝てばかりゐることを指してゐるとともに、真実の信仰に目覚めてゐないといふことも意図してゐるのだらう。

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