金子三四郎「姿勢こそ至誠である」

 『汝の姿勢を見よ』は金子三四郎著、金子事務所発行、昭和11年5月発行。序に曰く。

私は一介の実業家であるが、宇宙人生の原理及び国体の本義について特異の信念を持ち、曽て旧著に於て大嘗祭戴冠式との異同、菊花御紋章の神秘的由来、古事記と創世記との思想的異同につき卑見を発表して識者の批判を求めた(略)私は文章家でないのみならず、日夜国油の開発に鋭意して極度に多忙な生活を営んでゐる

 石油事業を営みながら、宇宙の仕組みや日本の国体について考へてゐる。宗教についても論じる。怪教や邪教が流行するのは、仏教やキリスト教が抽象的な観念論に堕してゐるからだ。「惟神の道」といふのも内容空虚だ。「さうなつてゐると高圧的に断定するのみである。これでは到底人心を満たすべきものではない」。生長の家についても、自己がないから病気もないといふのは虚無思想だと批判する。そこで著者は、人の姿勢にこそ真理があると指摘する。

一身の姿勢に至つては絶対不動のものである。故に、それは絶対不動の真理である。自己の姿勢といふものは、人の作つた画像や木像とは違つて、天の与へた実物である。此の天成の姿勢にこそは天地の大道が具はつてゐる。

 天御中主神天照大御神―世々の天皇―各自の祖先―各自の父母―各自の姿勢。

 姿勢については一枚の紙を比喩にして論じる。

姿勢は単なる物質でもなく、また単なる観念でもない。例へば、一枚の紙は、その半面を表といひ、その半面を裏といひ、全面を紙といふが如く、姿勢は一面物質とも見え、一面精神とも見えるが、しかし、その実相に於ては、その全面が姿勢である。

単なる物質でもなく単なる観念でもないもの、両方の面を持つものこそ姿勢だと論じ、物心一如の境地、仏教の中道のやうなものである、姿勢こそ至誠であるといふ。

 後半は旧著に対する諸家の返信。荒木貞夫、山田霊林、加藤玄智らが御礼や感想を寄せてゐる。浅田一は「姿勢即至誠」などの「御造語も面白く候」。剣道や座禅にも通じるものがあると共感してゐる。