服部宗明「実にお気の毒に堪へぬは祖先の霊である」

 『週刊現代』のコラムで、明治時代の教科書に秋水名義の書き込みがあり、幸徳秋水ではないかと言ってゐる。秋水は珍しくない号なのでどうだらうか。
 書き込みといへば『祖霊の居ます処』(服部宗明著、皇国同志会発行、昭和18年7月)。
 四月八日付の自序に出版経緯が載ってゐる。皇国同志会叢書の第二輯で、第一輯は松永材『念仏宗の論理』。その出版と同時に、服部が執筆を依頼された。初冬に予告を出して春に出す予定が、春が来てものんびりしてゐた。「果然松永氏から催促ではないが催促が来た」、そのうち病気になったりして、やっとできた。理事長の白鳥敏夫は序で「松永理事は数回に及んで服部氏に督促」と記す。
 本書の主題は、人は死んだらどうなるのかといふこと。半ばくらゐまでは地獄や浄土、その典拠の経典など仏教のおさらひをしてゐる。著者の主張は、極楽や阿弥陀如来のことは釈迦や初期の仏教では確かなものがない。後世の作りごとである、嘘である、詐欺であるといふもの。その文章が激しく、感情に訴えるものがある。

仏教に欺かれたる人々は、無量実に幾百億万人になるであらうか。此期間に於ける仏教に、帰依せられたる吾等が祖先の霊は、今も猶ほ彼方此方と、当てもなく幽界の闇路を徘徊い歩き、影もなく形もない、幻の極楽世界に、幻の仏を憧憬れて、唯際しもなき冥路の旅を、迷ひ、続けてゐられるのであらうかと、想像せらるるのである。憶へば想ふ程お気の毒でならぬ次第である。

如何に探されても、索められても、無いものに出会ふ筈は無いのであつて、阿弥陀如来も極楽浄土も、遂に見付かる筈も無いのである。実にお気の毒に堪へぬは祖先の霊である。

 このあたり、旧蔵者は朱で傍線や傍点、二重丸をつけて「この通り」などと書いてゐる。よほど熱心に読んでゐたやうで、ほかにも「嘘で固めた佛教」「佛教ハ亡國、亡人生の魔道なり」「居ても立つても居れない」「全く同感」ともある。
 ただし共感ばかりではない。地獄や浄土は嘘だとして、では祖霊はどこに行くのか。著者の服部は「高天原にこそ鎮まり給ふ」と書いてゐるが、旧蔵者は「高天原天皇國日本と各自の家庭にこそ」と修正してゐる。
 これだけ読み込んでゐれば、著者冥利に尽きるといふものだ。著書には略歴が書いてないが、旧蔵者が表紙に書きこんでゐて貴重だ。

服部宗明ハ元、京都市/紫野大徳寺の名僧なり/明哲なりしが、一旦自己の/本性に反省、正覚するに/及んて真日本人に/更生せし真人也。

 もとは僧侶だったが、生まれ変はって真日本人になったといふ。なるほど本の趣旨に合ってゐる。
 表紙には「永久」「傳家之寶書」といふ紙が貼られ、「子々孫々に傳へよ」と朱書きされてゐる。しかしかうして他人の手元にある。蔵書印などから都内の神社にあるべき筈なのだけれどと思ひつゝ表紙を眺める。もうすぐお彼岸。