昭和19年に玉砕した『日本仏教新聞』

 秋になると特に賑はふ神保町。神保町3丁目で日本仏教新聞社から発行されたのが『日本仏教新聞』。発行者は真継義太郎。号は雲山。
 同社の『仏教詞林新聞寺二十年集』は昭和19年3月発行。『日本仏教新聞』は大正11年2月創刊で、昭和6年10月に十年集が発行された。二十年集は休刊に際し、後世に残したい論説約320頁分を抜粋したもの。休刊を「玉砕」「散華」「殉国奉還」などと表現してゐる。執筆は殆ど社長の真継本人。新聞寺といふ寺院があるのではなく、編集部を指す。
 「日本神道新聞」としての内容兼具とか、「発行年月は如何に旧くとも宗教的生命価値に変り無し」とか、仏教新聞といひながら神道や宗教にかかはる記事も多い。
「高齢漫談」は社員紹介で、数年前は若手揃ひだったが現在は「老人内閣」ださうで、80歳の神田老人、86、7の社友、金子道仙、64歳の島野白骨が出てくる。神田老人は夏は5時、冬は6時に出社する。
 「師走の或る日—文献あさり落章譚」は、真継が続けてゐた、故郷丹波の櫛岩窓神社についての調査の一コマ。ある図書館に、求める古書があると判明、早速駆けつけ、「櫛岩」といふ文字がある筈だと読み進める。

ところが正午昼食、冊子のなかばにして未だ出ず、六分通り七分通りにして尚出でず、私の不安は漸くにして加はつた、八分にしてなく九分にして出でず、不安は焦燥と化し、図書館がグラグラとでんぐり返つて来た

 などと閲覧時の心境が描かれる。
 「御奉公一夕譚—今昔道楽つれづれ」では真継は読書道楽だといひ、30年仏書に親しんできたといふ。最近は絵入りの仏書に傾注し、「徳川版なら大抵そろひ得た位の自信はある」と豪語する。ほかに力を入れてゐるのが玄米食の普及で、「仏教新聞」の代はりに「玄米新聞」を発行すべきだったといふほど。
 「笑へぬ話物心一如—物質の裏にひそむ臨戦下の精神力」に出てくるのが創刊初期の協力者で、神奈川県警警視の久保村憲介。救世軍に対抗して仏教済世軍を組織、仏教軍歌を出版した、とある。正しくは仏教済世軍は真田増丸が興したもので、久保村のは仏教軍。そのほかに横浜税関構内廃物収集権を握っていたといひ、

分類された廃品倉庫を参観したことがあつたが、そこには紙屑山あり、金くづ山あり、材木屑(薪炭)山あり、布くづ山ありといふ訳で、それが一山々々に分類されてゐるのは中々の壮観であつたと記憶してゐる。

 久保村はその売上金で「廃品成金」になった。
 「本誌創刊の頃」によれば、当時既に高田道見が『仏教新聞』を発行、17年間続いた。没後に南拝山が継承したが関東大震災で廃刊した。 
 『日本仏教新聞』創刊時は発送も自分たちで行ってゐた。その時の挿話がよい。発送作業を手伝ってゐた一青年。

『この新聞を一枚いたゞけませんか』
といふ。仏教と聞いて読みたやとは殊勝のことに感じ入り、
『あゝいゝとも』
と返事をすると、その青年いきなり揃へた新聞をそのまゝ顔に当てしとみる間も遅し、チーンと大きく鼻をかんだ。

 真継が仏種のありがたさや、新聞ができるまでの苦労を説いたが、「タツタ一枚の新聞をそんなにケチケチ言はれる処には居りません」と言って退社してしまった。