碓氷元「マスクをとれ」

 『第一線人の健康法』は碓氷元著、狼吟荘発行、昭和15年10月発行。歯科医の著者が、有名人たちを訪問して健康法を聞き回ったもの。書誌データで他人と混同されてゐるものがあるが、碓氷は安政3年9月生まれ、昭和15年6月没。訪問先は軍人が多い。食事や睡眠、私生活など幅広く、素顔がのぞける。海軍大将・竹下勇の家では居眠りを奨励してゐる。

人間は、如何なる時でも如何なる場所でも居眠るだけの心の余裕と肚の太さがほしいものだ。実に居眠りは健康のサンタークロースである。

 頭山翁は睡眠時間5時間で、朝5時起床。歯は総入れ歯。

 著者は菊池寛と親しく、菊池の書いたものをべた褒めにする。『話の屑籠』は現代の徒然草で、大臣が束になった以上に国家社会に貢献してゐる。『新日本外史』も「歴代総理大臣の功績を総締した以上の手柄」とある。菊池は著者の碓氷に、数百円もする犬やサラブレッドをポンとプレゼントしてゐる。

 ほかの文章では、歯に関するものはさすがに専門的なところがあるが、随筆はたくみだ。中に「マスク」と題したものがある。

 マスクをかけてゐる多くの人達は、マスクをかけてゐれば風邪も引かないし、細菌も這入つて来ないと思ひ込んでゐるオメデタイ人達である。利口さうな顔をしてゐながら何故世間の人達は斯うまで阿呆なのであらう。

 マスク着用者を辛辣に批判してゐる。碓氷元はノーマスク論者だったのだ。マスクをつけた人たちが「阿呆面をして」人ごみに入ったり、外食をしたりすることもやり玉に挙げる。

どんな奴が来て食べたか分からないテーブルの上にマスクを置いて、帰りには又そのマスクをかけて出てゆく。一人は袂から出したホコリだらけのマスクを、周囲の人が飯を食つて居るのを尻目に、コートの膝でほこりをたゝいて、袂糞を落したマスクを又かけて出てゆく。

 袂にたまったホコリのことを袂糞といふのをこれで知った。マスクをそんなところに入れたり出したりしてゐる。マスクの中では自分の吐き出した有毒ガスを吸ってゐる。マスクをかけてゐると消極的になり、猫背にもなる。著者はマスクを取れと呼びかける。

著者は再び叫ぶ、マスクをとれ、そして胸を張つて大気を吸へ、さうすればいやでもオーでも健康になる。

 菊池にも同じ「マスク」と題した短文がある。一昨年文庫にもなった。そちらは風邪を恐れてマスクやうがひを徹底しようとするもの。菊池はきっとこの文章を面白く読んだことだらう。

 巻末には他の著書の紹介がある。『小説集 戦線の軍犬』に添へられた一文も菊池のもの。

君の作品は、おのづから読者に、特種な珍味を味あはせるであらう。君の作品を読んで行くと、いつしか小説的興味を越えた、驚異と感動の世界に囚はれてしまふやうな気がする。

 職業作家ではないのに、驚異と感動に囚はれると推賞する。碓氷は『長編小説 シェパードは躍る』といふのも書いてゐる。主人公は外科医だが、犬のシェパードが活躍するらしい。

不思議な女の頭蓋骨をめぐつて悲恋が嗚咽する。坊やが誘拐される。千曲の濁流に溺死する。さても有能犬シエパードがグロにして怪奇な数多の事件解決に如何に小気味よく活躍することか。

 舞台は信州から満州に及び、悲恋が嗚咽(横溢?)し、グロにして怪奇で小気味いい。なんだかよくわからないが、確かに特種な珍味がありさうだ。

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