大川艙太郎「蜷川新は不忠不義の大国賊」

続き。宇治川天保は「刷けついで」で、自分たちへの批判を取り上げたり反論したりしてゐるが、この筆者はとても口が悪い。『国体科学』は『原理日本』と交換雑誌だが、都合の悪い記事が載ってゐると向かふが送ってこないのだといふ。

蓑田といふのは、実に天下無敵無双古今絶無の原理的有批判、原理的有内容、原理的忠臣の大々学者で、(略)原理日本蓑田大々先生の弟子にならない者は、無学無信不忠不逞凶逆者なんだから、とてもたまつたものではない。

 と敵対心をむき出しにしてゐる。室伏高信に対しても、丸善の新刊洋書を買占めて翻訳してゐるのだとか、「ケチでいぎたなくて下劣なゲヂゲヂ野郎だ」だとか悪口雑言だ。
 
 畔田穣「電炉雑筆」は新刊紹介にあたっての随筆。たくさんの書物が出版されてゐることを指摘したあと、

 ところが、是等のすべては、一枚アマツ皮をひんむけば、書物其ものゝ存在権の主張によつて生誕したものといふよりも、寧ろ、製紙会社の、印刷所の、製本屋の、出版社の、新聞社の、広告屋の、大取引店の、書籍広告商の、乃至著訳者自身の現代個人主義社会に於ける存在権の呻きの昇華したものとして、社会の或一隅にコビリ付いたものだ。

といふ。出版は純粋に学術的なものではなく、個人や会社の思惑で世に出されるのだといふ。広告文も著者の肩書も当てにならず、「新刊紹介すら八百長が九分通り」ださうだ。
 さういふ目で見ると、里見岸雄の『天皇とプロレタリア』は裏表紙では65版とあるが、実際はこの時点で100版を突破しさうだともある。
 里見の著書の売り出しも、このやうな出版界のことを知った上で行ってゐたのか。
 ほかに大川艙太郎が「政争の具となれる『国体に対する疑惑』」について報告してゐる。これは『国体に対する疑惑』の目次に、「天皇陛下御真影に敬礼するは要するに偶像崇拝にあらずや」などと書いてある。この目次が不敬ではないかと批判があったといふもの。
 これは山浦貫一編著『景気か不景気か』といふ政友会系の冊子で、問題の部分は蜷川新が浜口民政党内閣を攻撃するところに出てくる。
 蜷川は本文の内容はともかく「偶像崇拝にあらずや」といふ目次の文言だけで不敬なのだといふ。ところがさうするとおかしなことになる。不敬だと批判してゐるこの冊子にも当然「偶像崇拝にあらずや」といふ文言が印刷されてゐる。不敬だといふ人が不敬の冊子を広めてゐる。

不敬罪であると知りつゝレイレイと載せたこの本などは不敬の不敬の大不敬、之を執筆した蜷川法学博士などは、不忠不義の大国賊だといはれてもグウの音も出まい。

 これには続きがあり、名古屋新聞に「犬養氏の政府攻撃は飛んだ的外れ」といふ記事。大塚警保局長らの談話も取り、「国体の疑惑」はもとは政友会内閣時代に発行されたもので、現在のはその再版にすぎない。天に唾する行為だったのだといふ。