こけし発掘者、中井淳の右翼人脈

 今は第3次こけしブームださうなが、こけし発掘者とされるのが中井淳・関西学院大学教授。『中井淳集』(昭和34年4月、中井淳集編集委員会編集)は関係者が中井を偲んで編集したもの。発行者は開国社の中井清太郎、取扱所は刀江書院。写真やカットにこけしが出てくる。
 追想では青江舜二郎、中井清太郎、宇野弘蔵、阿部次郎、今日出海らも思ひ出を寄せてゐる。座談会に鳥海青児、その夫人の美川きよが出席。会場は鳥海宅。装幀も鳥海。
 中井は昭和29年の元日に逝去。阿部次郎は「淳なくて何のをのれが御正月」「親爺去って冬は淋しき古巣かな」と喪失を嘆いてゐる。阿部はベストセラー、『三太郎の日記』で知られる哲学者。中井とは阿部の娘の思想関係でつながりがあった。
 中井は一高から東北帝大出なので漱石門下の小宮豊隆山田孝雄らとの交友も出てくる。一高同期の福田赳夫の謝辞が直筆のまま載ってゐる。「オやじの遺稿をまとめてくれる由喜びに堪えない オやじい決して死んでゐない」云々と思ひのほどが窺へる。
 一高での沼波瓊音の朝風寮、瑞穂会との関はり辺りから右翼との交友が出てくる。沼波と中井らとの間では「われわらが世の中に出て、それぞれの適当なポストについた時、あらゆる部面にいる仲間が、いわゆる平和革命をやるべきだというのが、沼波先生の意見で、われわれも真剣にそう考えていた」と話し合ってゐた。

 左翼はインテリで右翼はさうでないとか、いやさうでないとかといふ議論が思はれる。

 人名索引には笠置〔木〕良明、北一輝、村中孝次、渋川善助、多田等観、出口王仁三郎、広岡謙二の名もある。二・二六事件では、友人の一人が

「立て籠った中に中井の名がどうしても出て来ない。不思議じゃないか。だいぶ前に金を頼まれたんだが、キッとこのためなんだ…」

 といふほど、二・二六に必ず参加する性格だとみられてゐた。
 追想座談会では「平素、言葉のはしはしに、大川周明とか、満川亀太郎とか、蓑田胸喜とか、そういう名がポツポツ出ましたね」ともある。断片的で詳しいことはよくわからないが、

その時分、左の方は右を使って、自分らによいような日本を作ろうと思うし、右の方は左を利用していて、どっちがどっちだかわからない

 といふ中井の言葉が当時の状況をよく表してゐる。
 
 手元のものには、本来非売品だが資金不足のため、430円で市販するといふ案内と振替用紙が封入されてゐた。中井が好きだったこけしの写真を載せすぎたのかもしれない。
 




































・25日付の日経新聞、学生支援のための100円朝食と共に、書籍代も支援するといふ記事。見出しに「千葉大 学術書の格安古本市」とある。「新品なら数万円」が「100円や50円」て、とばしすぎではないかしらん。一冊で数万円はちょっと考へにくいけどセット物か。