野原剛堂が世話をした富田弥平と家族たち

 続き。『随筆 地方記者の生涯』には地元秩父出身の議員、荒舩清十郎、疎開に来た彫刻家、北村西望との関はりも記される。しかしここで特に注目するのは、富田弥平に関する記述。

彼は学校卒業後大隅公爵の用心棒となり或は台湾総督田健次郎の食客となり後大化会に出入して岩田会長と交り尊猶社の棟梁北一輝と深く交り中野正剛三木武吉小島七郎等とも相知り憂国概世の志士型に成長したのであった。

 誤字が多いが、大隈重信の用心棒を務め、田健治郎の食客のあと大化会の岩田富美夫、猶存社北一輝らと交はったなどと紹介されてゐる。大化会の関係者としては岩田、清水行之助、寺田稲次郎の履歴は知られてゐるが、富田弥平のことはこの本が詳しい。

 富田は柔道家の気楽流師範、関根幸作の高弟。17歳でアメリカに密航しようとして失敗。次に上海から満洲に入ったが帰国させられた。早稲田大法学部専科生となり、嘉納治五郎門下として柔道に励んだ。講道館五段となり、憲政会の院外団として全国各地に出張した。帝国通信社長の職を三木武吉から受け継ぎ、社運を回復させた。

 戦時中は野原が世話をして埼北自動車労務係とさせ、戦後は「手当り次第にアレヤコレヤと奔走」するも病死した。葬儀には御手洗辰雄も来た。

 著者の野原は、弟の富田治三郎の面倒を見てゐた。治三郎は雲取山の小屋番となり、雲取仙人と呼ばれた。

 弥平の没後、未亡人となった春枝。恋愛結婚で、源氏物語を愛読し、近世百科全書を購読する知識人でもあった。ひさごといふ料亭を開き、野原は庭に苔を生やすとよいとアドバイスをするなど、経営に協力した。繁々と料亭に通ふので、愛人と疑はれた。富田の長男は類人猿の研究をしてゐるといふ。

 野原は青年時代、高野佐三郎の九段の剣道道場に通ってゐて、江連力一郎が熱心だったとか、高野の目を盗んで女を買ひに行ったとか、明信館の様子がわかる。